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切り株や慈雨の雫も流れけり

切り株を見て在りし日を思う。外出したアリバイがあればいいんだけど、普段のようにスナップ写真を撮れないのは、他者の目を気にしてしまう。スマホ撮影で自撮りになったときなどわが顔を見てゾッとしてしまうのだ。目の下の隈が痣のように広がっているからメガネでは隠せない。それを確認する人もそういるとは思えないのだが、日陰者のハンデがあるのだった。

自分の顔に慣れないというのは、毎回鏡を見るたびに映画の悪キャラとかに重ねてしまう。そんな感じなので外部と遮断するのにラジオを良く聴くのだった。聴き逃しで「古典講読:源氏物語」とか。ただ講義は言葉を理解するのに時間がかかるので、電車の中では音楽が多いのか?音楽は瞬時で情景を替えてくれる。閉鎖空間に自分を閉じ込めていくのはよくないとわかりながら恐怖感に取り憑かれるとどうにもできないのだった。ただそんな中でも羽ばたけるきっかけとなる音楽はあるかもしれない。昨日感動したのは、サロネンの『火の鳥』(ストラヴィンスキー)だった。

電車の中ではいつものように読書も出来ずに異様に駅の感覚が長く感じた。変化した世界はそういうことなんだろうな。日常の時間ではなくなる。「病者の世界」なのだが、『魔の山』だった。そうした冥界潜りをして成長していくのだろうけど『魔の山』もなかなか読み終わらない。

図書館で予約本『100分de名著トーマス・マン『魔の山』』を借りたが本を忘れて『窯変 源氏物語』「若菜下」を読んだ。

錯綜としているが、混沌としたものが徐々にリズム良くまとまっていく感じが好きだ。「火の鳥」だった。

「若菜下」は光源氏は六条院を建てて天皇と変わらない地位に付きながら崩壊していくのだ。女三の宮という朱雀院の娘は、かつて敵対していた天皇のであり実質光源氏の異母兄なのだが、憎みきっていた。才能もないのに母の力によって天皇の地位にいて、光源氏は逆に降下させられ追放される憂き目に逢うのだが、そこからの貴種流離譚が現在の地位を約束するのだが、駄目兄のどうでもいい娘を預けられるのだった。その中で紫の上の病があり光源氏の心配事はそっちにかかりきりのときに女三の宮と柏木の不倫事件が起きるのだった。もともと女三の宮には何も期待してなかったのにさらに厄介者としての存在。光源氏にしてみれば不出来な娘なのであった。その比較として紫の上や彼女に育てられた明石の姫の存在があったり、光源氏が育てた夕顔の忘れ形見玉鬘が登場してくるのは出来た娘としてであった。

柏木は光源氏からすれば恋も知らぬ若造ということになるのだが、罪深いのは女三の宮の方だった。光源氏も若い頃に同じような過ちを犯しているが、藤壺と女三の宮の女の違い。藤壺のようにあしらっていれば柏木の不幸はなかった。逆に女三の宮に惚れてしまったのたのが柏木の落ち度だったのだ。それは光源氏の父権政治の中の味方であり、女三の宮のダメさも朱雀院が原因なのだった。そこが彼ら兄弟の違いとして娘の教育ということになっていく。

朱雀院の五十の祝で演奏会を開くのだが、女三の宮の妊婦姿で琴を弾かせるという仕打ちは、かなり酷いと思う。さらに朱雀院が音楽好きであり、女三の宮の噂はすでに届いているのだった。朱雀院が女三の宮を預けたのは優雅な琴でも弾ける女性の地位を得られるようにとだったのである。それを光源氏は醜態(実際にには衝立があるので姿は晒さないが音は音楽にうるさい朱雀院なら感じることもあるだろう)を朱雀院の祝の前の席で晒そうとしているのだ。それも光源氏ファミリーの女性演奏者の一人として。

もう一人犠牲となるのが柏木なのである。柏木も優秀な楽器奏者であれば自体の異常さに気づくだろう。光源氏の一族の子孫らが管楽を舞い演じるのだった。柏木が通常で居られないのは分かりきっていた。そこで光源氏が盃を取れとパワハラするのである。病の柏木はますます追い詰められて自爆していく。壮絶なドラマだ。今日の一句。

切り株や慈雨の雫も流れけり

今日の一首。「生命の樹」のような。

消え沁みる慈雨の雫も切り株なれば根絶えし地下に緑陰の風

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