昼顔や詩人のコートをクリーニング
昼顔の季節なのか。どこでも咲く雑草だけどたくましさがあるよな。朝顔とか夕顔が儚いイメージなのに昼顔は、転んでもただでは起きないたくましさというか、カトリーヌ・ドヌーブの『昼顔』は主婦売春の映画だったが、ブルジョア主婦の儚い夢をファンタジーではなくカトリーヌ・ドヌーブの美しさと共に描いていた。さすがにブニュエルの映画だった。
『源氏物語』でも夕顔が人気なのは、中流階級の女が幸せを望んだのに「もののけ」(あとで六条御息所の光源氏への嫉妬心が生んだとわかる)に呪い殺されてしまう。その儚さだよな。青春もその儚さなんだけど、それは老後になって回想する儚さであって、未来があるものではないと思うのだ。そんなことを思って映画の感想を書いた。
ネットカフェで『ウェイリー版源氏物語3』を光源氏の死まで読んだ。厳密に言えば光源氏の死は描かれているわけではなく「雲隠」という題だけの章があるのだが、『ウェイリー版源氏物語3』はそれを翻訳してなかった。そこがイギリス人と日本人の感性の違いなのか?そこは絶対必要だと思うのだが、ロマンチシズムの小説にしたかったのか、あえて光源氏の死は入れなかった。題だけで本編があるわけでもないが、その器としての死という形の無常観が良く出ていると思う。
その前(紫の上が先に死ぬ)の光源氏の和歌は独泳が多いのだが、それは呼びかける相手の紫の上がすでに亡くなっているので、祈りのような和歌なのだ。それも達観するのではなく未練たらたらで人間としての弱さを見せる。
紫の上の死を描きながら夕霧のどうしようもない不倫劇を同時に描く人間のダメダメさを描いて紫式部はあの時代で現代小説のような心理を描いている。そこが面白い。オチバは責められるところはないと思うが空きがあると責められる。空きがないのが紫の上なのだが、彼女の人生が幸せだったのかと光源氏が振り返るわけだった。クモイの夕霧に文句たらたらで実家に戻ってしまう行動力の方が囲われ続けた紫の上よりも面白い劇にしているのだった。そこが喜劇の面白さなんだよな。
昼顔だった。三橋鷹女の名句があった。
これは有刺鉄線に電流をながして脱獄を防ぐ監獄みたいな境界だが、そんなところにも昼顔はすがって咲いているというたくましさが感じられる。蔓化の植物はなにかにすがって生きていかねばならないが、昼顔のたくましさは戦時でもそういうふうに生きていく主婦の逞しさなのかと思う。あと、イタリアのネオレアリズモの作家でデビューしたイタロ・カルヴィーノの初期の作品『くもの巣小道』で昼顔の咲く砂浜で読書するシーンが描かれていて、そこが印象的に残っているのだ。ファシズムが忍び寄る時代に浜辺で呑気に読書している。それだけのシーンなのだが、いいのだった。そう言えば映画『昼顔』の監督だったルイス・ブニュエルもそうしたファシスト時代に敏感に反応した映画監督だった。
日本だと『昼顔』は不倫のイメージだけのジメジメした映画になるのだが、ブニュエルは自由を求める主婦が縛られて鞭打たれるのだった。ファシズム時代にはそういう女性も多かったのだろう。その猥褻な美しさがカトリーヌ・ドヌーブだったのだ。
そうだ。今日の一句。
中原中也が着るようなマントのような黒いコートなんだが、今年の冬はそればかり着ていた。来年着れるのだろうかと思いながらクリーニングに出した。
今日の短歌。
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