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雪隠や黒猫またぐ藪の中

「猫の日」になった。昼過ぎまでぐだぐだ外に出ようか悩んでいて、図書館に行く途中に黒猫と出会う。目があっても逃げないのはトイレだったからだ。図々しいにもほどがある。家猫だからか、そういうのは慣れているのか。羞恥心というものよりも、敵が襲ってくるとか考えないのだろうか。雪隠詰めの時に殺められる侍は、駄目だとかそんな諺があったような気がする。「雪隠詰め」がそもそも将棋で追い込まれることだったか?今日の一句。

雪隠や黒猫またぐ藪の中  宿仮

雪隠は雪に隠すだから季語としては冬なのか?黒猫またぐでトイレとした。藪の中は、本来野生はそういうものだろうみたいな。

日曜日が起点になるのは「NHK俳句」と「NHK短歌」があるからだった。それで大体レッスンがそれ以後になることが多いのだが、先週は出せなかったのだな。NHKレッスンが重なってしまった。この後にすぐ出すが、ほんとに体たらくな週だったのがよくわかる。

図書館で1時間ほど本を読んだが、土曜日は17時までで、その後にネットカフェに行って続きを読もうと思ったが満席で断念。家に戻ってきて相変わらずの体たらくだった。映画を観に行こうかと思ったがもうレイトしかなく、諦めた。そういえば『碁盤斬り』は落語があるという話だった。悲劇のあとの安易なハッピーエンドなのだが、喜劇の方がいいと思ったのだ。落語の「碁盤斬り」は面白いかもしれない。このあと聞いてみる。

昨日は松本清張原作『顔』を途中まで。『顔』と『張り込み』ほとんど同時に作られて、どちらも大木実が主演なのだが、ヒロイン役がそれぞれ岡田茉莉子と高峰秀子。二人は成瀬巳喜男『浮雲』で共演していた。それぞれの役どころの違いが出ていて面白い。岡田茉莉子はのし上がっていく悪女タイプのモデル役。対する高峰秀子は純愛を通す主婦役だった。

映画としては共感しやすいのは、高峰秀子のほうだろう。悪女に共感する人はいないと思う。『未来のイヴ』で描かれていた男を地獄に突き落とす女なのだ。その女の運命がどんでん返しで罪になるから面白いのか?ミステリーとしてはそうなんだろうな。だから後に何度もドラマや映画化がされていた。最近では藤山直美主演の阪本順治監督『顔』が印象的だったが、逃亡犯に同情するように描かれているのは、藤山直美のキャラだろうな。

今は悪女のイメージで描くのは女性受けが良くないだろうと思うのだ。その意味でも『張り込み』の方が面白いと感じたのだが、岡田茉莉子の顔がけっこうこの映画ではポイントになっているような気がしたのは、猫顔なのだ。美人というよりキツイ女の顔だった。阪本順治監督『顔』の藤山直美とは逆だよな。見比べてみるのも面白いかもしれない。

クシャミが止まらん。やっぱ花粉症なんで集中力がないのだった。読書『魔の山』は50p.ほど。ハンスが「魔の山」の患者になっていくのは、「死」や「病」に対しての憧れみたいなものあるとセテムブリーニから指摘される。ここの対話は面白い。芸術論なのだが「死」を尊厳的なものに考えてしまう宗教や芸術に対して、セテムブリーニは合理主義の視点から論じていく。生きることを選ぶべきであると。第四章までを第一次大戦前に書いていて、そのときは戦争に対して肯定論だったのだが戦争で中断して、その間にマンの思想的変化があるという。それがセテムブリーニの芸術論かもしれない。生の芸術というような。今日で読み終えて明日返却に行きたいだよな。予約本二冊が用意されているけど返せる本が1冊しかなかった。こういう読書の進め方はよくないと思いながらも『魔の山』はそれほど好きでもなかったから。「100分de~」もやっているので、それがいいガイドになっている。

こんなところか?やることが多いな。短歌も詠まねば。このあと「NHK短歌」観てからか。今日の一首はここで。

猫顔の
逃亡犯は
悪女なり
雪隠詰めで
逮捕するなり

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