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波うつ土地も再開発されていく

『波うつ土地・芻狗』富岡多恵子 (講談社文芸文庫)

さりげなく見える“日常”の底に、人間の“生と性”の深層を鋭く抉り、苛烈にして鮮烈な新しい洞察の世界を描き出す、時代の尖端に立つ富岡多恵子の鮮かな達成―。話題作『波うつ土地』『芻狗』の二著を収録。

出版社情報

私小説の語りでフェミニズム以前の女性の生きにくさのようなものを小説としたものだろうか?男が当時の男性のステレオタイプのような気もするが、70年代ぐらいの男尊女卑をモデルとしているような感じである。富岡多恵子は上野千鶴子との共書『男流文学論』がある。そのパロディのような印象を受けたが、それでも男性(セックスパートナー)を求める業というか、アニー・エルノーの情事小説と較べてみるのも面白いかもとおもってしまった。富岡多恵子は自己分析よりは男(他者)分析なのだが、その展開は近松のような語り物(情事の落とし前)を踏まえているように思う(悲劇なのだ)。

解説の加藤典洋は吉行淳之介『夕暮まで』を連想する(パロディ)としていたが大岡昇平の『武蔵野夫人』だろうと思うのだ。谷戸という土地、その中で生息する人と土地と生活の中での物語。富岡多恵子が描く語り手の女性は男を性行為の物象化として扱うのだが、一世代下の組子は、語り手の私になれなく自死してしまう。そこは自殺したアイドル歌手の岡田有希子を連想した。

なんだろう。女という生き方一般を問うのだが、それぞれの女の生き方はシステムの中で充足してしまうということなのか?それに反発していく分身としての組子があった。組子は男の妻の容子にも憧れていたのではなかったのか?組子の死が問題提起として語り手の問題として捉えるならば次世代の文学に受け継がれて行ったはずである。

例えばトラックドライバーとの情事だと赤坂真理『ヴァイブレーター』を想い出すし、テニスのシーンは柳美里作品(題名失念)を連想するように次世代の足がかかりになったのは事実だろう。

例えばその問題意識を共有できないのなら単にパロディ的な作品としか捉えられないだろう。組子の自死は大きいと思うのだ。

「波うつ土地」というのは元々は海の近くの高台の人が生息した場所であった土地から井戸が潰され再開発されてしまう団地のような乾いているコンクリートの集合住宅地。その中で男は個室としての車を持ち情事と核家族の生活の行き来をしている。女は水になりその土地に吸われていく。


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