ノロの視線は岡本太郎に何を語っていたのか?
『岡本太郎の沖縄 完全版』(2022年/日本/127分)【監督】葛山喜久
以前見た『沖縄久高島のイザイホー』は最後のイザイホーをカメラがとらえたドキュメンタリーだったが、それはイザイホーを知るには良かったのだが、予告編でこちらの「イザイホー」の方が気合の入り方が違うと思って観たくなったのだ。
それはチラシの表紙の写真のノロ(最高位の巫女)の力によるものが大きいのではないかと思われた。岡本太郎が写真に収めた久高島のノロ(久高ノロでいいのか?)のおばあさんの目力。このドキュメンタリーもノロの写真に惹かれてこのドキュメンタリーを撮ったそうである。
岡本太郎が神の島久高島に興味を持ったのは日本人というものを探索して最後に沖縄に辿りつたという。そこで二回目の訪問の1966年の「イザイホー」をカメラで収めたのである。久高島は小さな島だが人口が多い。島事態は痩せた土地で豊かな作物が出来るわけがないので、男たちは外洋で魚を取ることで生活が成り立っていた。その留守の間に島を守るのが女たちの役目なのである。そして「イザイホー」はその女たちが神によって巫女として選ばれるために行われる祭りだ。つまり女たちが抑えていたものを発散させるハレの日なのである。
祭りの感情が解放されるのは、一種のヒステリー状態だと思った。それだから強い力で統制するノロが必要なのである。村の女の集団を統率出来るノロがいればこそ「イザイホー」は成り立つのだと思った。
最後のイザイホー(1978年)が行われて、12年後の1990年はノロが高齢化によってその体力がなく中止になったのだ。その伝統が閉じられて今日まで行われることがないのは、時代が違うというのもあるのだろう。今は生きるためというよりは生活のためという人の生き方も変わってゆく。生存のためという厳しい自然の掟があったからこそ神を求めていかなければならなかったのだ。そして死後にはニライカナイが海の向こうにあるという世界なのだ。
岡本太郎のこのドキュメンタリーは解りやすかったのだが、ただ岡本太郎が風葬の場所をカメラに撮って公表したのは、まずかったと思う。まがりなしも墓なのだから、そこの住民感情を害することはわかりそうなものだが。朝日新聞がバックに付いて了解を得ていたというが、それは一部の人間だけだろうと思うのだ。末端の人すべての了解を得ていないのならそのようなことが許されて良いはずはない。
そのことが問題となってそれ以降風葬の場はコンクリートで覆われて立ち入り出来なくしてしまった。それは豊かなる文明が貧しい文明に対しての冒涜であった。イギリス人がピラミッドの墓を暴くようなものである。時代と共にそうした神秘性は失われていくのは仕方がないことなのだ。
そう思うとこのドキュメンタリーは貴重なのだが、やはりそこに島の人の哀しみもあることを理解せねばなるまい。ノロの写真がそれを語っている。
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