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シン・短歌レッス69

今日の一句

あざみが最近好きな花になりつつある。『らんまん』でも「あざみ」が取り上げられていた。まあ、自分のイメージは中島みゆき「アザミ嬢のララバイ」だが。

https://youtu.be/QH-0bUJ-PEo

薊は春の季語だなんて。夏は夏薊。

日常に刺さったコトバは夏薊

棘で出来ないと思ったのだが、「日常」を変えたほうがいいか?今日は泉鏡花のコトバを借りよう。

青鬼に刺さったコトバや夏薊

うたの日

お題「鯉」。これも泉鏡花で使える。
『百人一首』は

「憂きものはなし」憂き=雨季=浮き。鯉=恋

初恋やすくふ網なし崖つぷち沈みゆく鯉うきものはなし

♪二つ。指定席かな。♡がないのが悔しい。自分で付けるか。

在原業平の和歌

濡れつつぞしいて折りつる年の内に春は幾日(いくか)もあらじと思へば  在原業平

『古今集・春下』

詞書に三月の晦の日、雨の中で藤の花を折って人に贈ったとある。藤は晩春から夏にかけて咲く花であるが、この歌では名残の花として詠まれる。

藤を名残の花として詠んだのは白楽天の「慈恩寺に題す」の文から。また雨に濡れた花の美を詠むのも白居易「長恨歌」からの一節で、業平は漢詩に弱いと思っていたが、このぐらいの知識は常識だったのか?

ただその贈り主が誰かは書かれていない。『伊勢物語』「八十段」では無論、女性宛てだが。

新古今歌合

今日は恋歌十番。

(歌合八十三番)
わが恋は穂に出でて招く薄野よ枯れてもしたに思ひ草かな
わが恋も今は色にや出でなまし軒のしのぶももみぢしにけり

恋歌難しいな。左は叶わなぬ恋の想い出。右は忍恋だが紅葉にように燃えたとか。左が『新古今』で勝ちだな。違った。右は左大臣に強引さか。正比古が控えめなのは珍しい。

(歌合八十四番)
わが恋は松を時雨のそめかねて真葛が原に風騒ぐなり
わが恋は波の穂花を手折りかね浦廻(うらみ)に折り(し)潮騒の音

これも難しいな。左は待つ人が時雨に逢うほどだ激しい恋か?右は薄を手折って渡したけど裏切られて憤るのか?なんか違うような。左の方が単純だから『新古今』か右は正比古のわからん歌だろう。だいたい合っていた。葛は風が吹くと葉が裏返るので恨みなんだそうだ。右も恨みの歌。

(歌合八十五番)
わが思ひ日にけにしげくなりゆけど朝朝におく夏草の露
足引きの山したしげき夏草の深くも君に思ふ頃かな

左は思いが日に日に募るけど朝に出る草の露のようだ、だろうか?右は山の夏草のように君を深く思う頃かな、で左の方が幻想で『新古今』かな。右はポジティブな思いの正比古。違った。八十三番と同じように、正比古に裏をかかれているな。右は紀貫之だった。「足引きの山したしげき夏草の」までが「深く」の序詞だそうだ。こういうテクニックか。普通のように感じたが。人麻呂の本歌取りなのか?

(歌合八十六番)
下燃えに思ひ消えなむけぶりだに跡なき雲の果てぞ悲しき
蚊遣り火の下に燃えにしわがけぶり消えてそ人の思ひ寄すらむ

煙対決。左は空高く消えていく恋の煙で右は煙が思いを表している。わかんないよ。左の方が「悲しき」があるから『新古今』かな。右はテクニシャンの歌だった。当たり。ただ右は命が消えるという意味も含んでいた。正比古なのにかなりブルーだった。右の勝ちだな。

(歌合八十七番)
わびぬれし百夜の袖もあかねさす君が一夜の思ひ干ぬる
つらかりし多くの年は忘られて一夜の夢のあはれとぞ見し

二つとも女歌なんだよな。左の方がよりロマンチックかな。右もかなりロマンチストだよな。左の方が現実的で右の方は幻想的か。左『新古今』で右正比古か。違った。右は男歌だった。

(歌合八十八番)
いかにせむ葛の裏吹く秋風に下葉の露の隠れなき身を
白々と裏葉をみせて葛に吹く君はいつしか秋風となる

葛葉対決。左は裏切られた自分自身の露のような状態で、右は相手が風のような状態だと歌っている。左は『新古今』で右は正比古。当たった。でも難しいな。歌の意味がわかっても判断材料がない。

(歌合八十九番)
逢ふことのあけぬ夜ながら明けぬればわれこそ帰れ心やはゆく
あかぬ戸をむなしく待ちて明けそめて空に消えゆく有明の月

右は兼家の歌だったような。左は開けてくれないのなら速く帰ろうという歌だろう。左正比古、右『新古今』。違った。左は女性が男の気持ちを歌ったものだと。右の正比古は兼家の本歌取りだろう。

(歌合九十番)
待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは
秋たつと思ふ夕べの風の音は更けゆく宵の鐘はものかは

むずかし過ぎる。左は別れを鳥に喩え、右は鐘の音は過ぎゆく時間か。左は相手で右が自分自身か。そうすると右は女性。左も女性か?左正比古か。違った。ことごとく反対だな。鳥は鶏だった。恋は難しい。

(歌合九十一番)
頼めおく人も長等(ながら)の山にだにさ夜更けぬれば松風の声
頼めおく人はこぬれの小夜時雨(さよしぐれ)いづちの宿で雨音聴くらむ

全然わからん。左は風で右は雨。左は待つ女と過ぎ去る男。「頼めおく」は依頼する。左『新古今』右の方が凝っているから正比古か?当たりだけど、左は鴨長明だ。「頼めおく人」は訪れる人、ながらの山は「無(む)からの山」。こんな掛詞はわからん。本歌があるのだった。

ささなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな  詠み人知らず(平忠度)

『千載集・春』

ながら山さえ誰か(花が咲く)を待っているのに、風しか訪れないという意味だと。わかるわけない。右も来ぬ人のために袖を涙で濡らしているという歌だと。「こぬれ」は「来ぬ」と「小濡れ」の掛詞。

(歌合九十二番)
あだことの葉におく露の消えにしをあるものとてや人の問ふらむ
あだことの葉とは思へど捨てがてに変わりし色の裏を見てゐる

詞書に訪れる者がない女に、久しぶりに問う(手紙を出す)がその返事にの意味か?詞書も原文だからよくわからないが、相聞歌になっているようだ。

「あだことの葉」は徒事の葉(コトバ)だろう。女の愚痴か?左は女の愚痴といえども人のコトバだ。右は捨てた女の欲望の裏を考えていると女を否定する和歌だ。右がありそうな『新古今』で左は正比古だろう。違った。だいたい歌意は汲み取れたていると思うのだが正比古がそんな冷たい和歌を作るのか。見てゐるは手紙を読んでいる、の意味だから少し婉曲表現なのか。

5割ぐらいの出来だ。正比古の歌が読めなかった。恋だから正比古の恋を詠んでいるわけでもないのだ。そこを見極めるのは難しい。

疲れた。

俳句レッスン

今日も岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』から「重くれと軽み」を読む。「重くれ」というコトバは始めて聞くが思想性というような意味か?「軽み」は芭蕉が言う軽みというようなことで、俳句はライトな「軽み」を目指してきた。「思想性」を目指した俳人は中村草田男ぐらいだと言う。

くらやみへ くらやみへ 卵ころがりぬ  富澤赤黄男

視覚のイメージは、日常性を超えて世界観を示している。中村草田男はそれを預言的世界観だという。それと逆に山本健吉は、俳句とは「挨拶」「滑稽」「即興」という俳句の「軽み」を提出した。しかしそのような自動筆記は近年AIの登場によって「自動生成」するAI俳句との差異がなくなりつつある。

長距離寝台列車(ブルートレイン)のスパークを浴び白長須鯨(しろながす)  佐藤鬼房

有季定型ではない鬼房の俳句は「軽み」とは対極にある世界観をしめしている。これはみたままをそのまま写生句にするということを超えて「日常性の批評的な意識」が作り出す句である。

みちのくは底知れぬ国大熊(おやぢ)生く  佐藤鬼房

ままごとの飯もおさいも土筆かな  星野立子
約束の寒の土筆を煮て下さい  川端茅舎

茅舎の句は、茅舎が重病で入院中の一句であり境涯俳句とされるものである。それは茅舎の境涯を知らなければその俳句の重みはわからない。俳句は十七音の有機結合体ならば語と語の選択とそれを結びつける助詞の時間性が「軽み」だったり「重み」だったりを生み出す。

俳句の制度による不自由さはAI俳句に取って代わられ、例えば英詩俳句はそれまでの日本の俳句の制度を超えたものとしてHAIKUとしてAI俳句では作れない句が世界的に詠まれている。それも制度として囲ってしまえば再びAI俳句の独壇場となる。(自分の意見を加筆しました)

現代俳句

京極杞陽「うつくしく」「つつましく」など素直な表現が虚子の注目を引く。見たままの即興性がいいとされる。たぶん俳句講座では最初にはねられる句だろうとは思うのだ(俳句表現のセオリーを無視している)。それが一見なんでもないものを意表をついた句となってしまうのだから、よくわからない。虚子がいいというものはいいんだろうな。

美しく木の芽の如くつつましく
性格が八百屋お七でシクラメン
スキー術変な呼吸がいい呼吸
詩の如くちらりと人の炉辺に泣く
蝿とんでくる箪笥の角よけて

日本的人物名と西欧のモダンな花の組み合わせだという。ちなみにシクラメンは篝火草。

ベルリンの日本人会の虚子歓迎会で詠まれて虚子と運命的出会いをする句だという。たぶん日本語が話されていない状況で突然日本人の俳句に出会ったことに驚いたのではないかと思う。これが普通の句会だったら、箸にも棒にもかからない句だろう。

「八百屋お七」の句は、なんとなくいい。性格が「八百屋お七」というのは「八百屋お七」を知らない人にはなんのことかわからないが、坂本冬美の歌を聞いた人はなるほどと思うはず。でも「シクラメン」か。桜だと思っていたのに。美空ひばりの歌のイメージか?

「変な呼吸」の変な俳句の諧謔性を出した句だと。スキーをインストラクターに習って褒められた時だろうと想像する。その一瞬を見逃さない斬新さなのか?

これも虚子の愛弟子森田愛子を詠んだ句だということで存在感を増すのだ。愛子は病弱でそれでも虚子に会いに来た。その時に愛子が流した涙を詠んだものだとする。

蝿の何気ない飛行が、客観写生と言われる名句になるのだ。箪笥の角を避ける早さという臨場感だという。こういう句を作ればいいのだ。読み手が勝手に解釈してくれるような。

野見山朱鳥。この人も名前を聞いたこともない。そういうことなんだろうな。一世風靡でも後には塵のように消えてしまう俳人だった。だからその一句が尊いのかもしれない。この人も肺結核に侵されながら境涯俳句を作った人で生命諷詠が特徴。虚子はそれでも具体化に乏しいと厳しい批評を残しているのだ。先の京極杞陽との違い。

火を投げし如くの雲や朴の花
秋風や書かねば言葉消えやすし
ついに吾も枯野のとほき樹となるか

「朴の木」と華やかな比喩の対称が絵画的表現だという。
「秋風」の句は、肺結核の俳人ならではの境涯俳句となっている。その詞書に「風立ちぬ」が引用されているという。その本歌取り的な句なのだろうか。二つの旋風。
「枯野」も芭蕉の句の転用だろう。三句だけだった。


映画短歌

『幻滅』。田舎の青年詩人が都会に出てきてスキャンダルジャーナリストとなって人生に「幻滅」するバルザックの「人間喜劇」

『百人一首』は

「有明の月」か白雪か?どっちでも幻滅になりそうだ。

朝ぼらけ灰色コカ・コーラを見るまでにアイツと君と飲み潰れた日

中上健次でした。


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