![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/108479361/rectangle_large_type_2_886cf6c472840b5eccb927d8e2ebd2e0.jpeg?width=800)
シン・短歌レッス71
今日の一句
再び梔子。けっこう気に入っているのだ。梔子の俳句は作れなかったから。
虫誘う梔子の花細い指
歌からのイメージなんだがイマイチだ。
懐メロやくちなしの花口説く父
くちなしや口説くオヤジはキンチョール
これでいいか?川柳だな。
うたの日
お題「蛙」。
『百人一首』は
あぜ道の蛙呼ぶ声輪唱し奈落の底へ友ならなくに
♪一つだった。なんか低調だ。投票しても反映されないし。なんかこのパターンが奈落だった。
小野小町の和歌
![](https://assets.st-note.com/img/1687002994520-rjQMPQ21Ra.png)
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき
小野小町
夢の歌二首目である。なんか可愛いな。最初は思春期頃だと思ったのにこの歌はもっと幼いような気がする。「夢てふもの」は客観的な言い方で『万葉集』には登場しないという。結末の「てき」は小町特有の決然とした言い方だそうだ。
目崎徳衛『在原業平・小野小町』を読んでいたら小野小町が美人だという観念は紀貫之の『古今集』序(かな序)で刷り込まれたもので、以降は作品そのものを読むとあまり美人という印象はないそうなんである。定家とかは幽玄の人とイメージしたようである。だから恐ろしい地獄絵図が書かれたり能でも老いを物語っていたり。まあ自分のイメージは『押しの子』のB小町なんだが。そういうイメージが楽しい。
NHK短歌(6/18)のゲスト伊藤比呂美は面白かった。講師に反論するゲスト。だから私は現代詩なんだ!とか。朗読も良かった。坂づくし。道行の手法だよな。説経節。短歌の一人勝ちに一言言う現代詩人の構図。現代詩も書けるようにしよう。現代詩レッスンがそのうち始まるかも。
NHK短歌(6/19)川野里子「硝子」、山崎聡子「怒っていたこと」(7/3)吉川宏志「夏の虫」、大野大嗣(だいじ)「ライブ」
NHK俳句(6/19)夏井いつき「あさがお」、山田佳乃「鳳仙花」(7/3)村上鞆彦「新豆腐」、高野ムツオ「七夕」
平成歌合
今日の「平成歌合」は紀貫之の兄さん(従兄弟だった)紀友則。
(歌合十一番)
左君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る
右君がゐるここちこそすれ梅の花色にも香にもこの身を染めて
梅の色と香対決かな。右は正比古だろう。そのぐらいは読めるよ。左は紀友則。以外と普通だ。右の勝ちだな。
(歌合十二番)
左色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける
右さきににほふ花も吉野の桜木は古るる本木(もとき)のさびてまたよし
右は地名吉野が入っているので友則だろう。左はさくらを愛でる人が年々増えてきたというような歌か。右は桜の古木は風情があって良し。違った。正比古が地名を詠んできた。混乱するな。左は桜は毎年詠まれるようになったが、自分は年老いてしまった変化を歌にしたのか。正比古はちゃんと吉野に行って写真も撮っていた。
(歌合十三番)
左み吉野の尾末(をぬれ)の人影溺るがに峰べに寄する花の八重波
右み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける
二つとも地名だ。左は現代的な花見客のような。右は人影もなく桜か雪かと思っているので右が友則。右の勝ち。左は人影が桜の波に溺れているようだとの意味だった。
(歌合十四番)
左五月雨に物思ひをれば郭公(ほととぎす)夜深く鳴きていづち行くらむ
右五月雨れて暗れ塞がれる夕庭を裂きて鳴き行く時鳥の声
時鳥の漢字問題は引掛けぽいな。右は庭なんだよな。宮廷かもしれないので右で友則でどうだ!左の郭公は引っ掛け問題。違った。そのままで良かったのか。ボーナス問題だった。
(歌合十五番)
左天の河浅瀬しらなみたどりつつ渡りはてねば明けぞしにける
右天の河たのみの渡し舵絶えて明けゆく岸のながめはるけし
詞書があり、七夕に上様のお子に捧げる歌を詠めとか。これはなんかやったような気がするな。左は舟で渡った歌で、右は渡れなかった歌か。わかるわけないじゃんな。まあ右が『古今』で勝ち。外れ!左は徒歩だった。両方とも渡らない内に夜が明けたという歌だ。恐れ多くて歌を渡せないという意味もあるのだとか?
(歌合十六番)
左菊の弁(よ)をうきに浮かべて酌む宵は常世国(とこよのくに)にゐるここちする
右露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しかるべく
菊酒と菊を折って飾って祝ったのか。左が友則か?よくわからんが。違った。菊は不老長寿の効用があり、菊酒を飲むのと頭に菊を挿すのと。菊の露にもその効用があるとか。
(歌合十七番)
左雪ふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし
右雪ふればわか色わするや紅梅は木ごとに白き花をさかせる
雪対決。右の紅梅なのに「白き花」はおかしいじゃないかと思ったら雪なんなんだよな。こういう凝ったことをするのは正比古。左は雪が梅の木の区別を無くすと詠っている。当たり。雪を花と見なすのは古今集の常套手段だという。木ごとは「木」と「毎(ごと)」それを合わすと「梅」だとか。なんか凄いセンスだな。漢字の分解か?やってみたくなる。
例えば「硝子」は石と不肖の子に分けられるのではないか?NHK短歌が一首出来た。川野里子「硝子」。
(歌合十八番)
左闇の中かそけき光り吾(あ)を誘ひ追へばや消ゆる有漏路(うろじ)の蛍
右夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき
左「かそけき」はかなり好きな言葉でいいと思うのだが、有漏路(うろじ)の蛍は普通は言えないと思う。これは正比古が探してきた古語だろうと思う。右は単純だけど情景が浮かぶ。友則。当たり。「有漏路(うろじ)」は仏教用語だそうだ。難しすぎるよな。蛍の名句は和泉式部が有名だという。
物思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る 和泉式部
和泉式部の歌を本歌取りにして、投稿完了。山崎聡子「怒っていたこと」。お遊びみたいな歌だった。
(歌合十九番)
左来ぬ人の宿にこそ鳴け蝉しぐれ吾の哭(おら)びと心づくまで
右蝉の声きけばかなしな夏衣うすくや人のならむと思へば
左はやった覚えがあるから友則だろう。消去法で右正比古。左は慟哭する情念が出ているな。違った左が正比古だった。右は蝉の羽が夏衣を思い出すという歌。あっさり風味の友則だった。
(歌合二十番)
左ごとならば言の葉さへもきえななむれ見れば涙のたぎまさりけり
右玉章(たまづさ)の水茎やさいき師の歌を誦せばたまゆらおはすとまがふ
詞書があって惟喬皇子の代わりに詠めということだった。ちちが天に召されたのかな?右は難解なので正比古だと思う。左は素直に泣いているから友則。当たり。でも詞書の理解が違っていた。亡き父の歌を見て何か歌を作れというのだった。そんなの自分で作れよと思うのだが。
計算するのもめんどい。5割ぐらいか?全然出来なかったように感じた。友則はそれほどテクニック的ではないというイメージだ。貫之より地味な感じ。歌はよくわからなかった。
俳句レッスン
今日も岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』から「叙情と劇の間」を読む。俳句の虚構性ということか。寺山修司らがやった一人称の劇的空間という問題。例えば高柳克弘の句。
どの樹にも告げずきさらぎ婚約す 高柳克弘
実際に読み手本人が結婚するわけではなく虚構の劇空間で詠んだ句だ。まだこんなことが問題になっているのか?という驚き。そういうのは寺山世代で終わっているのかと思っていた。問題化はされたが、未だに問題にする人がいるのだろう。この論はテクニック的に劇的という手法が有効かどうかだと思うのだがそれは恐ろしく有効だということ。
サンダルをさがすたましひ名取川 高柳克弘
名取川は宮城県にある川で、これは東北大震災を読んだ句である。実際に作者がその場にいるわけではなく、サンダルだけがニュース映像に映ったのかもしれない。それを劇的に「さがすたましいひ」と言霊を呼び出したのだ。これは例えば短歌や俳句でいう作中主体と言えるのかどうか?作中主体は「たましひ」なのである。それは虚構性の中にある彼岸性である。つまり俳句表現はここまでやっているのだ。
これを「ルビコン川」(ローマのカエサルが世界征服のためにスペインを占領する)に例えて、すでに現代俳句は「ルビコン川」を渡っていたのに気づかない人がいるのが俳壇だという。そのせめぎ合いは今も続いている。「俳句」と「現代俳句以後」と。
現代俳句
宇佐美魚目。俳号が面白い。戦後派俳人の伝統派俳人となんだかよくわからない。
馬よりまた歯より衰ふ雪へ雪へ
すぐ氷る木賊(とくさ)の前のうすき水
藁苞(わらづと)を出て鯉およぐ年の暮
どこやらが冬どこやらが春の雲
花よりも蘇枋に降りて濃ゆき雨
夕方は滝がやさしおと茶屋女
これは「人間も」ということを含んで作中主体は作者であるということなのだろう。ただそこに登場するのが馬でもあるから馬が作中主体といも言える。なるほどよくわからん。人馬一体と言っているが、その先の「雪へ雪へ」が凄いのかもしれない。行け行け精神だな。
木賊(とくさ)がわからなかったな。刃物を研磨するときに使う草だという。全体的冷たい刃物のような感じなのか?
この句も「藁苞」がわからないとお手上げだな。
納豆を包んでいた藁かと思い出すが今の人はわからないだろう。こういう句は消えていくんだろうな。
次の句のリフレインはいい。「どこやらが」で冬の季語で繰り返す。そして春なんだ。季重なりだけど理由がある!これは夏とか出来るかもしれない。
暑いけど夏暑いけど秋なんだ
俳句上では秋だけどまだ猛暑の日々。
これも蘇枋(すおう)がわからないとお手上げだ。
「茶屋女」の妙かな。すでに喫茶店のウェイトレスが出てきた時代だろう。去りゆく者の侘しさ。次は漢字がわからないからこれで終わり。古い言葉を残したい俳人だった。
森田峠は「無事の人」という。無難なという意味か?よくわからん。
箱河豚の鰭は東西南北に
まっすぐに物の落ちにけり松手入
箱河豚の俳句は面白い。確かにそうかもしれない。発見の妙か。でもこれは詩なのか。
庭師が落ちたのではなく、松の枝が落ちた写生句だという。だからなんだ、と言いたくなる。ニュートンの法則か?
二句だけの紹介だった。
映画短歌
映画短歌は『孤独な声』。ほとんど眠っていた映画だがやりたいと思って感想待ちだった。
『百人一首』は清原深養父。このへんは全然知らないけどデューク・エイセスの「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」で有名だとか。渚ようこのやつかもしれない。違うか?イメージ的に。
夏映画「孤独な声」の子守唄オールナイトが終われば夜明け
あまり本歌取りにはなってなかったな。イメージ的に。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?