見出し画像

しびれる夫婦漫才なのか、ボケとツッコミの短歌本

『しびれる短歌 』東直子, 穂村弘(ちくまプリマー新書)

恋、食べ物、家族、動物、時間、お金、固有名詞の歌、そして、トリッキーな歌…。さまざまな短歌について、その向こうの景色や思いを語る。歌人の二人による楽しい短歌入門。
この本の目次
第1章 やっぱり基本は恋の歌
第2章 食べ物の歌には魔法がかかっている
第3章 いまがわかる!家族の歌
第4章 イメージを裏切る動物の歌
第5章 人生と神に触れる時間の歌
第6章 豊かさと貧しさと屈折と、お金の歌
第7章 いつか分からなくなるのかもしれない固有名詞の歌
第8章 表現の面白さだってある、トリッキーな歌
付録1 歌人ってどうやってなるの?
付録2 真似っ子歌

短歌作りの指針にしている穂村弘だが、読み手としての東直子との感性の違い(それは男女差ということもあるのかも)は、夫婦漫才の短歌入門書のようで面白い。穂村弘の言葉に対する東直子のツッコミは鋭い。

この本は掲載短歌はある程度名のある歌人のものなので、そのへんも魅力的な短歌が多いし、若い人ばかりではなく、中城ふみ子や寺山修司が出てくるのも魅力的。ただどうしても寺山世代は今の感性とは違うんだよな。寺山に憧れるけど寺山のこだわりは今の人には受けないなと感じている。

今受けるのは枡野浩一の短歌だとは思うのだが、穂村弘のこだわり(例えば寺山修司好きとか)、それは寺山が頭で考えて(観念で)実作する人。それは感性的な枡野浩一よりは同時代性が近い気がする。

木や草の言葉でわれら愛するときズボンに木漏れ日がたまりおり  寺山修司

寺山修司の青春短歌だけど、それを光合成みたいと読み取る穂村弘の言葉に対する純粋さ、それを妄想主義的な脳内短歌とバッサリと切る東直子がいる。

東直子も与謝野晶子や中城ふみ子を褒めそやすのでけっしてぶっ飛んでいる現代っ子でもないのだ。それは俵万智や河野裕子の短歌を取り上げる姿勢に出ていると思う。だから穂村弘のライバルとして仮想的の役割を担っていると妄想するのだが。例えば岡崎裕美子の自身の身体をもの扱いしそこに恋愛のセクシャリティーを見るのだが、微妙に穂村弘と東直子で意見の相違があるのだ。穂村弘は繁殖するためのセックスと恋愛のためのセックスを分けて、そこに女性性を肯定しようとするものがあるのだが、そういうところを東直子は指摘する。それは男の浪漫主義なのだと。

繁殖を拒否もせず快楽の延長として女ごころを読むところに東直子の歌人としての伝統主義が息づいているのだ。それは寺山修司を尊敬する穂村弘とは逆の方向にあるような感じをうけるのは、もう一人の観念派の塚本邦雄の短歌の受け取り方の違いをみてもわかると思う。東直子は全然面白くないと否定し、それをなんとか取り繕う穂村弘がいる。

一番二人の違いがよくわかった面白いのは「真似っ子短歌」で、穂村弘が東直子風の短歌を作り、逆に東直子が穂村弘の短歌を作るのだ。穂村弘はなんとか東直子に似せようと作る(観念派だから)のだが、東直子は最初から諦めているようだ。穂村弘の短歌に絶対そういうことをしないという東直子の指摘がそのまま穂村弘の短歌らしさだった。

フォーカスという言葉に対する焦点の違い。それはその言葉にどこまでもこだわって明確にしようとする穂村弘に対して東直子はぼかすというより共感性を求めていくというような。穂村弘はそこに自我を出そうとするのだ。

ねがいねがいねがいなあにくるくるとひっくり返る絵馬絵馬絵馬よ  穂村弘

穂村弘のイメージ東直子に気持ち悪いって返す東直子はシンジに対するアスカかな、と脳内妄想してしまう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?