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シン・短歌レッス88

紀貫之の和歌

桜花とく散りぬともおもほへず人の心ぞ風も吹きあへず                紀貫之

桜の花を人の心に見立ているのだが、桜の花より散りやすいのは人の心と言っている諧謔性。ただこの歌は「おもほえず」の言い方が歯がゆいような。『古今集』の紀貫之の桜の歌の多さはなんだろう。

一目見し君もや来ると桜花けふは待ち見て散らば散らなむ
春霞なに隠すらむ桜花散る間をだにも見るべきものを
ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへに静心なし
桜花とく散りぬともおもほえず人の心ぞ風も吹きあへぬ
山高み見つつわが来し桜花風は心にまかすべらなり
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
三輪山をしかも隠すか春霞人にしられぬ花や咲くらむ
梓弓春の山辺を超え来れば道もさりあへず花ぞ散りける
春の野に若菜摘まむと来しものを散りかふ花に道はまどひぬ
宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける
吹く風と谷の水としなかりせば深山隠れの花を見ましや
吉野川岸の山吹く風に底の影さへ移ろひにけり

「春歌下」だけでも12首もあり、それ意外の巻にもあるようだからよほど桜好きで桜の歌には自信があるのだろう。それも「散る桜」に美意識を見出しているように思える。人の心もうつろいでゆく刹那感がいいのかも。

古今和歌集 巻第二 春歌下

ついでだから他の有名歌人の桜のうたも見てみよう。

桜花散らば散らなむ散らずとて故里人(ふるさとびと)の来ても見なくに  惟喬親王
桜散る花の所は春ながら雪ぞ降りつつ消えがてにする  承均(そうく)法師
花散らす風の宿りは誰か知る我に教えよ行きて恨みむ  素性法師
いざ桜我も散りなむ一盛りあいなば人に憂きめ見えなぬ  承均(そうく)法師
垂れこめて春の行方も知らぬ間に待ちし桜も移ろいにけり  藤原因香朝臣
枝よりもあだに散りにし花なれば落ちても水の泡とこそなれ  菅野高世
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀友則
春風は花のあたりを避(よ)きて吹け心づからや移ろふと見ゆ  藤原好風
雪とのみ降るだにあるを桜花いかに散れとか風の吹くらむ  凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
春雨の降るは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ  大伴黒主
花の色は霞にこめて見せずとも香をだに盗め春の山嵐  良岑宗貞
花の木もいまは堀り植ゑじ春の立てば移ろふ色に人ならひけり  素性法師
いざ今日は春の山辺にまじりなむ暮れなばなげの花の陰かは  素性法師
いつまでか野辺に心のあくがれむ花しちらずは千代も経ぬべし  素性法師
咲く花はちぐさながらあだなれど誰かは春を恨みはてたる  藤原興風
春霞色のちぐさに見えつるはたなびく山の花の影かも  藤原興風
霞たつ春の山辺は遠いけど吹き来る風は花の香ぞする  在原元方
花見れば心さへにぞ移りける色には出でじ人もこそ知れ  凡河内躬恒
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしま  小野小町

良岑宗貞(よしみのむねさだ)は、遍照の(出家前)の名前。

やり始めてから後悔するほど桜の歌が多すぎる(紀貫之と詠み人知らずは省いているのに)ので小野小町で打ち止め。やっぱ一番は小町ちゃんでしょう。紀貫之を入れるとちょっと悩むかも。『古今集』に在原業平の桜の歌はなかったのか?「春歌上」にあったんだ。「春歌上」はまだ咲始めのようで、「散る桜」が「春歌下」になるのだった。いったい『古今集』に桜の歌はいくつあるのだろう(桜と書かれてあるだけで上下合わせて73首という情報、「花」もあるからな想像出来ない)。『古今集』の桜を分析できたら論文一つは書けそう。

大森静佳『ムッシュ・ド・パリ』

水原紫苑編集『女性とジェンダーと短歌』を借りてきたので女性歌人の研究。大森静佳は巻末の座談会「現代短歌史と私たち』にも参加。若手No.1の歌人のようだ。大学生短歌というエリートコースを歩んで、現代短歌の中に伝統短歌を模索するというような。ネットなどの「短歌」をスモール・トーク(内輪言葉の短歌)だとすれば、ビッグ・トークの「短歌」だという。この座談会は面白いからいつか紹介出来たら紹介したい。ここでも水原紫苑と川野里子が対立していくのだが、それを上手く収める穂村弘の構図だった。余計な話が多すぎる。

大森静佳『ムッシュ・ド・パリ』(作品100首)からお気に入り十首(ぐらい)。

桜には横顔がないからこわい春から春へ枝をのばして
変声期は生まれる前にあったはずこの喉にレモンソーダ光って
くるしみのからだとおもう母を見て父を見て赤い蝋燭を見て
雄叫びは雄叫びをかき消してきた、とは思わねど紫陽花の鬱
ぜんぶってつらい言葉だうつむいた顔のちからで吸うアイスティー
くらやみにGoogle Mapを灯しつつ眠らずにいる国境までを
空洞は鳩の特権 いのちって言葉のなかに〈い〉と〈の〉と〈ち〉あり
ゆびさしてカモメを空に産むきみはユゴーのことをユーゴーと言う
一錠ずつ白夜のごときもの呑みて行くコンシェルジュリー監獄
筋肉のゆたかな秋がかつてありわたしはそこにいなかったこと
ギロチンの刃って濡れたら錆びるから雨の日だれもかれも首ある
ムール貝をバケツに四杯食べる旅 たましいもからだもわたしなり
にっぽんに眠るおとうととその夢のなかゆくようにポン・ヌフ渡る
燃え落ちる尖塔見つめ薔薇窓はひそかにこぼしたか白い血を
称号はすべてあかるくだらしなくムッシュ・ド・パリの首すじの皺
ギロチンの玩具であそぶ子どもたち鼠は天国のいきものなのに
椋鳥を匿っていたあの木だよわたしの手首をつかんで離す
まえがみを左右にひらく検温の銃口をきちんと睨むため
倫理学研究室の友だちのジーンズいつもだぶだぶだった
窓のサッシの埃を見つめ聴いていた死刑制度についての講義
産み、産ませ、生きさせ、殺し、殺させて真っ赤なダリア破れはじめる
口角から顔がほろびてしまうから桜吹雪にふりむかないで
死者は呼気、生者は吸気 あたためてマスクの裡のしずけさにいる
痙攣をくりかえす左右のまぶた 触れる あなたがそこにいるから
ギロチンがギロチンの子を産む夢のなかでわたしは助産婦だった
この世にてわたしがかけたいくつもの眼鏡をぜんぶ割ってください

十首以上になってしまった。それはこれが物語短歌であるからだ。最初に重要なユゴーのエピグラフがあった。

人間は皆、無限定の執行猶予がついた、死刑囚なのだ。

ユゴー『死刑囚最後の日』小倉孝誠訳

それからⅠは日本の日常の情景。「変声期」の歌から過去の情景だと思われる。思春期なのか?「くるしみの」の歌から母と父が読まれているから、そんな思春期の家族の状況だろうか?
Ⅱとなって、2019年のパリ旅行の観光短歌。親子水入らずという光景か?「燃え落ちる尖塔」は火事になったノートルダム寺院、そして薔薇窓は葛原妙子の短歌からの引用だと思う。ギロチンのパリをイメージして人の残酷さを描いているのか?「空洞は鳩の特権」って料理だろう。贅沢三昧の旅行者。
そして、一転コロナ禍の日本の現在となるのだった。もしかしたら母を亡くしたのかもしれない。

ギロチンがギロチンの子を産む夢のなかでわたしは助産婦だった

この短歌が一番強度があるだろう。クライマックスと言ってもいい。その前に母が亡くなっているのだ(コロナによって?)。先の歌で「ユーゴー」と言った君は母かも知れない。たぶんユーゴーで表記された時代があったのだ。自分もユーゴーで覚えていたような気がした。

母と葛原妙子が重ねているのは、葛原妙子も娘との対立があったからだと思う。この連作が娘と母の対立と和解を詠んでいる構成なのだと思う。連作短歌の物語性というところに興味を覚えた。

うたの日

「秒」だな。「秒殺」とか。刹那と時間だろうな。

「百人一首」は小野小町にしよう。

花の色は秒殺に闇月眺めかぐやの君は彼岸の光

これでいいや。もう出かけたい。♪一つだった。こんなもんか?

映画短歌

『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って 4Kレストア版』

『百人一首』

ロープウェイ布団干してふかふかにカーゴは来ない君のストライキ

こんなもんかな。

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