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ロラン・バルトの「失われた時を求めて」

『明るい部屋で』ロラン バルト, 花輪 光 (翻訳)

《狂気をとるか分別か?  「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のぺージをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる》(ロラン・バルト)

本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(《それはかつてあった》)を明証しようとした写真論である。細部=プンクトゥムを注視しつつ、写真の核心に迫ってゆくバルトの追究にはまことにスリリングなものがある。

本書はまた、亡き母に捧げられたレクイエムともいえるだろう。私事について語ること少なかったパルト、その彼がかくも直接的に、母の喪の悲しみを語るとは! 本書は明らかに、著者のイメージ論の総決算であると同時に、バルトの『失われた時を求めて』となっている。《『明るい部屋』の写真論の中心には、光り輝く核としての母の写真の物語が据えられている》(J・デリダ)

写真が絵画より演劇に近いというのは、彗眼である。決定的瞬間や組写真のように、静止画というよりは動きに重きを置く写真もある。さらにバルトは風景写真についても、そこに住みたくなるかどうかだと言い放っている。明るい部屋という題は、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)とは対照的な明るい部屋(カメラ・ルシダ)を指している。プリズムが外部に照らし出す光の形。舞台のようである。

バルトは写真を「ストゥディウム(一般的関心)」と「ブンクトゥム(一般的関心を揺さぶり能動的な感情を引き起こす芸術的関心か?)」とに分けて、「好き嫌い/愛する憎む」「情報だけのCM/物語る芸術作品」のような写真が語りかけるコトバを探り出す。例えばロシアのウクライナ侵攻のニュースを見て、一般的な関心は戦争は良くないことだが、一枚の写真が能動的に語るインパクト(例えば「決定的瞬間」の求心力のある一枚の写真)に出会い行動に変化をきたす写真。

それはCM写真の欲望とは違った在る種のフェティシズムを含んだものとなるのだろう。無修正のポルノ写真は、どこまでも即物的なものであるが、エロティシズムの写真は鑑賞者との関係性(物語性)を作っていくのだ。ただこれは今の時代、難しい部分もあって、ジェンダー論で語られると駄目なエロ写真に陥ってしまうのかもしれない(アラーキーを考える)。

芸術の神話性というもの。写真が演劇に近づくのは「死者信仰」によるものだ。古代の演劇が死者の為に弔うための儀式として行われたような、写真としての役割。慰霊写真と繋がっていくのか。例えば写真が今は失われた世界を表層する演劇性か?絵画でも古典絵画は神話をモチーフとして、演劇的に振る舞うことがある。

それはプルースト『失われた時を求めて』の古典絵画が礼拝的価値を見出すように、過去の写真は礼拝的価値を見出す(ベンヤミン「複製技術時代の芸術」)。

母の過去の写真から過去を呼び起こす物語は、バルト『失われた時を求めて』なのだ。写真という遺影。それは過ぎ去った完全な過去の姿で、それを外部から読む作業によってエロティシズムの関係が生まれてくる。ただバルトと母の関係はもうちょっと複雑か?バルトが母の娘時代の純粋無垢さを引き出していく信条告白というような。写真を見つめる視線は狂気性をはらんで見つめ返されるのは、畏怖する死への投影だろうか?


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