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まとまらない『失われた時を求めて』の感想。

『失われた時を求めて〈10 第7篇〉見出された時 』マルセル プルースト (翻訳) 井上 究一郎(ちくま文庫)

タンソンヴィルのジルベルトの館での滞在から、戦時中のシャルリュス氏、そしてゲルマント大公夫人邸の午後のパーティまで。美学的な結論。

Amazon紹介文

なかなか感想が書けないというかまとまらなかったのだ。「見出された時」は老人文学と言ってもよく、それまでの『失われた時を求めて』が回想の文学としても時間は直線的に進んでいた。ここで語り手が老人としての振り返りがあるのだが、それが見事に描写されている。一つはズレなのである。若い時に感じていたこととのズレを見出していく文学は一回性の物語ではなく、反復なんだけど持続しているという時間論を含んでいる。それは悲劇に対して喜劇なのだ。そんな老人の姿、階段を急いで上れないとか、そういうことが身に沁みて共感出来る文学だった。

読書日記

読書『失われた時を求めて 10』を読み始め。40pほど。50p読めれば全快というところなんで、かなりいい線。(2022.9.17)

50p.まで。アルベルチーヌの怨念から逃れママと行くヴェネチア「センチメンタル・ジャーニー」の巻。

『失われた時を求めて 10』停滞。フランス料理とアールデコ美術のわからなさ。はっきり行ってどうでもいいシーンなのだ。(2022.9.18)

『失われた時を求めて』60p.第一次世界大戦中のサロンの様子など。婦人服のファッションショーとか。それまでの貴婦人のドレスじゃなく軍服を意識したミニスカートとか。(2022.9.19)

失われた時を求めて』戦時のヴェルデュラン夫人のサロン。すでにかつての華やかさはないのだった。オデットがいた華やかな時代との比較。アルベルチーヌはすでに忘却している。アンドレの結婚した相手への皮肉。
 ヴェルデュラン夫人が、ゲルマント大公夫人になっていて混乱する。その前に祖母の親友だったのはヴィルパリジ侯爵夫人と名前が似ているから。ヴィルパリジ侯爵夫人は由緒正しいゲルマント家。ヴェルデュラン夫人は成り上がりのゲルマント家。そのへんでブルジョワーが差別されているのだった。ゴングールの日記(実在するゴングール兄弟)はプルーストの架空日記。そこでヴェルデュランのサロンが描写される。すでに語りてもいっぱしの作家になっている?アンドレの夫が新進作家でそのサロンでは花形なのだ。(2022.9.21)

『失われた時を求めて 10』10p.ぐらい。それだけでも結構大変になっている。シャルリュス氏のドイツびいきと第一次世界大戦。敵国であるドイツびいきであるということは、世間的にはマイナス(もうダメ親父化している)。それでも押し通す自己の威厳があると語り手は感じる。貴族性というような。(2022.10.1)

『失われた時を求めて 10』を久々に読む。それまでの感想を書いていたメモがなくなるという失態。まあ、大したことは書いてなかったのだが。
 悪い癖で一つの本だけを読むことなく、同時に何冊もの本に手をだしてしまう。常時10冊ぐらいは同時に読んでいる気がする。それでは内容が頭に入らないだろうとnoteにメモを取ったりしているので、その心配はないのだけれど、今回はそのメモが見当たらないという。一見プルーストはだらだら書いているようで時代は凄い変化しているのだった。なんせ第一次世界大戦になっているのだから。そんな中でもヴェルデュラン夫人は相変わらずサロンを開き敵襲のサーチライトが美しいとか、サン=ルーも敵襲のサイレンをワーグナーの「ワルキューレ」に喩える。
 これは『地獄の黙示録』と同じだった。コッポラは『失われた時を求めて』読んでいたのかな。それと普遍的な美という概念の危うさはサン=ルーの貴族趣味にも出てくる。そんなサン=ルーと結婚したジルベルトが戦時に極めて活発に動くのは考察の余地がある。ジルベルトとの語らいは、語り手との散歩のシーンにあり、部屋(サロン)の中の美の語らいとは違っている。現実に対処できない者たちと極めて現実的に動く者たち。(2022.10.13)

『失われた時を求めて 10』200p.まで。大学教授であったブリショがジャーナリストに転身していくのが第一次世界大戦であったというのは、現在も大学教授が戦争が起きると解説者になってのさばる構図と似ている。語り手はそんなブリショの才能を褒め上げるのだが、サロンでは馬鹿にされている。その仇敵になっているのがシャルリュス男爵なのだ。
  風見鶏的なブリショは時代性を読むのに長けてはいるが、それは個人としての意見というより大衆社会を見据えてのもので、シャルリュス男爵の見解は旧弊とするドイツ浪漫主義を引きずっているのだが、語り手はそういうシャルリュス男爵を理解しながらも彼の意見には反論せざる得ない。古い城は新しい人々によって壊されていく現実。それは現在でもル・コルビュジエの現代建築(バブル期に建てられた?)が解体されていく。国にとって特別な意味を持たないものは、そういう運命なのだ(それも政治的)。(2022.10.15)

『失われた時を求めて 10』は250p.まで(一日50p.までしか読めない)。シャルリュス男爵が当時(第一次世界大戦頃)の旧世代なわけだけど、ドイツ系の貴族出身だからドイツ贔屓なわけだった。でも当時は反ドイツの愛国心信者が大勢出てきた。それはジャーナリズムに踊らされていると批判するのだ。語り手はシャルリュス男爵のそういう部分を批判すると共に擁護していた。(2022.10.17)

『失われた時を求めて 10』。20p.ぐらい。戦争へのフランソワーズのごく当たり前の戦争感情。それをオーバーにより悲劇的に語ってフランソワーズを悲しませる給仕人頭の話題。
 フランソワーズが国外の教会が破壊されるのを聞いて極めて悲嘆的な感想を漏らすのだが、それは我々がニュースを見てそれまでまったく興味が無かったのに悲しむということがあるものだ。
 「ノートルダム大聖堂」にも行ったことがないパリの人だというフランソワーズは戦争破壊に悲しむのだ。普段は教会にはまったく興味がない人なのに。ただニュースでそういうことを聞くと悲しむ。それは誰にもある。
 例えば、私は「ノートルダム大聖堂」が火事になって悲しんでいた。それはユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』を読んだからで、歴史物建造物に興味があったわけではない。
 さらに首里城の火災のときも。首里城は沖縄に行ったのに見に行かなかとか。そのことで火事になってから後悔があったり。火事がなかったら首里城は忘却の彼方にあるだろう。私自身あまり歴史的建築物には興味がなかったのだ。そういう歴史的建築物は横浜にもあるんだろうけど、そういう観光地にはあまり行かない。デートスポットになっているから一人で行ってもつまらんというのもある。歴史家でもないのに。フランソワーズの庶民的感情と語り手のエリート的感情との落差。(2022.10.20)

『失われた時を求めて』200p.まで。サン=ルーが戦死した。彼については、いろいろ思い出があったが死んで想い出すときは一番良かった時代なのかと思った。誰しも人が死ぬとそうなのかもしれない。(2022.10.22)

 ファスト映画やファスト本が流行っているという。そこで『失われた時を求めて』のファスト小説を読む意味があるのか?っていう問題について。読んだ者にしかわからない世界があるということ。それは語り手が経験した善悪だけで測れない世界観。ネット社会はなんでも善悪で判断してしまう。オン・オフの世界だ。文学はそこが違っているから、読者によって判断も違ってくる。読者の経験値によるとこもある。それが青春小説では同時代的に共感を持って読むことが出来るが、人生の終わりに書かれた小説では、作品に対して否定的になるかもしれない。何故なら、すでにその未来は閉じられネガティブさしかないからだ。ただ彼が経験することでそうしたネガティブな感情も慰安をもたらすかもしれない。(2022.10.23)

『失われた時を求めて 10』230p.ぐらいまで。
 一度250p.までは読んでいたのだ。栞が無くなってまた200p.から読んでいた。ただここは結構重要なことが書かれており、二回読んで正解だったかも。
 シャルリュス男爵のSM嗜好の過激さと共に彼の性格の過激さ。語り手の良き話し相手で遺言でも語り手に財産を譲渡するほどの仲であったのだが、その素性については理解出来ないことがあった。同性愛のSM趣味にしても理解できずに、愛人(モレルというヴァイオリン奏者)を失ったことを紛らわす為だと思っていた。
 しかし、シャルリュス男爵の中にあるのは物語(彼の貴族の出自にまつわる精神性)から抜け出せなかったのだ。それは三島由紀夫がホモセクシャルということと関係するかもしれない。三島由紀夫が過去の日本精神というべき物語から抜け出せなかったのと似ている。
 だからモレルがシャルリュス男爵から逃げていたのは、三島の自決のときの森田必勝のような介錯人の役割を拒んだ色男だけの人間だったのだろう。両刀遣いだがシャルリュス男爵に近づいたのは物欲の為で精神の為ではなかった。
 橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』は三島由紀夫がシャルリュス男爵のように、物語から抜け出せなかった戦後民主主義との関係を描いている。昨今の若者に見る物語信仰もそれに近いものがあるように思える。(2022.10.26)

『失われた時を求めて』を少し。語り手は大衆に対して見下すような所があるのは、育ちの違いだろうか?それだからシャルリュス男爵を批評しても同情的な視線になる。(2022.10.27)

『失われた時を求めて 10』を少し。読んだ所をもう一度読んでいた。ジュピアンのSMの館の話。シャルリュス男爵の趣味がそういう傾向だったことに、語り手はショックを受けている。ただシャルリュス氏をなんとか理解しようとしている。それがシャルリュス氏が芸術家だったら優れた小説家にもなれたのにということだった。庶民のほうに下りてきた貴族だが、なんだろう、三島由紀夫的とでも言えばいいのか?権威的なものが第一次世界大戦で崩れてしまった。そのことに彼は鞭打たれるのだ。
 一つはフランスのドイツ的な貴族優生思想。それが第一次世界大戦のドイツの敗北により、貴族的なものも没落していくと考える。三島由紀夫が日本の敗戦の後にあと貴族優生思想が破壊されたと思う気持ちと同じものだろうか?そして、サロンから相手にされなくなったということもあるのだろう(三島の場合はマスコミ)。その対極にいるのが使用人のフランソワーズで、彼女の戦争観も面白く描かれている。フランソワーズは一般大衆の戦争観。(2022.10.30)

『失われた時を求めて』は意地でも読まなければと思って昨日も少し読んだ。
  「見出された時」の第二部は終わったようなのだが、どこまでが第一部だったのだ?後で調べることにして、第二部はシャルリュス男爵とサン=ルーの男色趣味であろうことは間違いなく、サン=ルーの戦死で終えている。それは老いて醜態を晒してしまったシャルリュス男爵と若くて戦死という名誉の死を得た貴族階級の終焉を描いている。
  次からはまた「ゲルマント大公夫人の午後のパーティー」に移るという解説。まただらだらのパーティーなのかと思うとげんなりする。(2022.10.31)

『失われた時を求めて』少々。シャルリュス男爵の老化現象がかなり進んでいる。(2022.11.1)

『失われた時を求めて』350p.まで。栞が抜けたりして読む所がわからなくなることが多いのだが、この辺でいいんだろうと。だいたい50p.づつ読んでいるから。それ以上は無理だった。ここはかなり重要なところでサロンとかの話はなく、「無意志的記憶」について。プルーストで有名になったマドレーヌのプルースト効果について。
  『失われた時を求めて』が凄いのは幼少時代から回想を描いて、普通だったらそこで終わるのに「見出された時」では二回目の回想に入るのだ。読者も朧気ながら読書した記憶しかしていない。そこでプルーストは記憶の再現というべき繰り返すのだが、細部では記憶違いもあるらしく、プルーストが老いてから(だから厳密にいうと話が違っているところがあるという)書いた「見出された時」の回想は、最初の場所の記憶とは違ってしまったという老いの記憶を振り返るのだ(読者も朧気にしか覚えてないので、語り手の老いの記憶と重なるような錯覚を受ける)。
 それはアルベルチーヌとの情事だったら、避暑地(バルベック)の期待感から出会い、愛人にするまでの過程が描かれるが、老いてからの記憶はそうしたことを経験した後の記憶だから記述も変わってくる。青春時代の文学と老年時代の文学を楽しんだことになる。それは老年時代の記憶は、すでにアルベルチーヌの死だと予め知ってしまっているのだ。
 そこがベルクソンの言うエラン・ヴィタール(生命の躍動、持続性)がないという記憶なのだ。ただそれを再び感じさせてくれるのがあるとすれば、それは芸術だという。
 『失われた時を求めて』の語り手がいうのはヴァントゥイユのソナタ(スワンとオデットの愛の国歌はヴァイオリンとピアノの二重奏)から複雑な七重奏曲でさらに強められた躍動があったということ(シャルリュス男爵の恋と語り手の恋が加味される)で、語り手には作家としての力量がないということで、尊敬するベルゴットのような作家にはなれそうもないと思うのだ(ちなみに語り手とプルーストは違う)。
 その芸術論がなんともわかりにくいというか(錯綜して語るから、文学のベルゴット、音楽のヴァントイユ、絵画のエルスチールが同上で語られる)、そういう芸術論でもある本だった。そこは作品を書きながら芸術論を明らかにするというメタフィクション的な手法だ。そういう芸術に失敗した語り手を語りながらプルースト自身はかなり手応え(自身の芸術的を信じていた)があるから書き続けていたのだろう。
 例えば、語り手の敷石の躓きが重要な箇所で、それまで無意識的記憶での重要箇所は、マドレーヌの甘い想起、馬車から過ぎ去っていく木の刹那い記憶(これはサルトル『嘔吐』と似ていると思った)、そして敷石の躓きという記憶とそれぞれの記憶のパターンが書き分けられている。そこはあとで考察できれば考えてみたいが、出来ないかもしれない。(2022.11.6)

『失われた時を求めて』50p.読んだ。そのぐらいがちょうどいい。それ以上読むと混乱する。今は芸術論のところだから結構重要なんだよな。多様性ということなんだが、作家が書くものを読者がどういう眼鏡で読むかによって物語の内容が変わってくるというもの。それはある。読書の見えないところと注目するところ。
 例えば建物に興味がなかったら有名な教会とか出てきても素通りしてしまうが、興味ある人はその辺にある教会にも目が行く。この語り手の場合、幼い頃見たステンドグラスに描かれていた物語が後々彼の生き方に影響を与えていくのだ。
 その人生の中で鑑識眼の鋭い画商のスワンとの出会い。スワンからはいろいろ学ぶのだがスワンが不得意な恋も倣ってしまった。
 語り手と同じようにサン=ルーはシャルリュス男爵の性癖を受け継いでしまった。サン=ルーは語り手と対極にいる人人物だろうか?。でもある部分では同類みたいな。
 サン=ルーは貴族でなんでも手に入れることが出来たが恋は駄目だった。語り手もなんでも手に入れたつもりが恋は成就できなかった。そういうことだ。(2022.11.16)

『失われた時を求めて』などは長編すぎて、以前読んだ話なんか忘れてしまう。そういうときに感想を読むと思い出す。ただ『失われた時を求めて』は終わりの方が老いた語り手で記憶を呼び覚ますのが、忘却の感じで、そこが微妙にいいんですね。物忘れの語り手と重なっていく。老いの文学になっていますから。(2022.12.8)

映画での待ち時間に『失われた時を求めて』を50p.ぐらい。

「ゲルマント大公夫人の午後のパーティ」なのだが、この「大公夫人」というのがややこしいのだ。ブルジョア階級のヴェルデュラン夫人が成り上がりとして貴族の称号を手にいれたのだ。それはジルベルトと同じなのだが、ジルベルトは先にサン=ルーと結婚していたので、ゲルマント大公夫人の悪い噂を聞いている。その階級社会だから、ゲルマント家は王家と同等かそれ以上の貴族というから、その落ちぶれていくのと同時にブルジョア階級がのし上がっていく様が描かれている。
それは語り手も同じなんだが、最初はスワンとオデットがこのヴェルデュラン夫人のサロンで出会った。そういう成り行きが象徴的で、もう一人語り手と同じように貴族社会に食い込んでいくブロックというユダヤ人の友人(悪友か?サン=ルーのように好意的に描かれていない)がいるのだが、当時の社会(第一次世界大戦以降)のブルジョア階級の成り上がりを描いていて、その影の中心がブロックであるのだが、どうもこの登場人物がプルーストと重なるような気がする。
語り手が貴族憧れ青年だったから、スノッブな貴族たちを好意的に描くのだが、それが語り手の年老いた『見出された時』で明らかになるような展開だった。そういうスノッブさに気づくということなんだが、それでもゲルマント公爵夫人の貴族中の華というような存在、そしてジルベルトの母でありスワンの妻であったオデットの美貌。それだけが変わらずに後はほとんどが年老いていく世界だった。『見出された時』は語り手の年齢が50過ぎて、その時代ではそろそろ老いを意識する頃だから、そういう年代の人が読むとすごく共感性があるのだった。そういうのを知りつつ幼なじみと出会う感じでジルベルトと再会するから、この巻はすごく感動する。そうだよな、最初はオデットの投影でジルベルトとの初恋時代があって、そしてアルベルチーヌの情事は貴族性を試すことだったのだ。そういう感じでブルジョアが成り上がっていく姿を描いているのであった。(2022.12.10)

映画の待ち時間に『失われた時を求めて』を少し読む。いよいよ、終わりそうだ。寂しくなるな。そんな感じの長編だった。もう一度最初から読みたい気もするが、『源氏物語』を読むのだ。現代語訳だけど。与謝野晶子と角田光代の平行読み。その間にまた解説書とか読むだろうから、来年の読書目標は『源氏物語』になる予定。(2022.12.11)

ラ・ベルマというかつて名声を博した大女優がいたのだけど、晩年は極貧生活。もう一人娼婦のような女優崩れのラシェルは貴族の愛人として、サン=ルーの愛人でもあって、ジルベルト(サン=ルー夫人)としては我慢できない相手なのだけど、ゲルマント公爵夫人のパーティの朗読会に出席せざる得ない。彼女もゲルマント一族なのだが、ゲルマント公爵夫人からは成り上がり貴族の女と思われている。
 それもジルベルトは、高級娼婦のオデットの娘であり、父はユダヤ人ブルジョアのスワンであるから、生粋の貴族の血を引くゲルマント公爵夫人(オリヤーヌ)から見ればブルジョアの成り上がり娘であったわけだ。その嫌がらせの意味もあったと思うのだが、語り手はそんなジルベルトやスワンやオリヤーヌを幼少の頃から見てきて、貴族の憧れからサロンの寵児になっていくのだが、彼の最初の憧れがスワンだった。
 そしてそうしたサロンに出入りするようになると芸術よりもスノッブ(芸術気取り)の者が多くてサロンも嫌になるのだが昔からの付き合いで呼ばれることも多いのだ。
 そして何よりゲルマント家は語り手に取ってもっとも大きな存在である貴族なのだが、幼友達のジルベルトはスワンの血をひくだけあって芸術にも造形が深い。
 そこでラシェルの朗読会なのだが、女優と言っても、そういう娼婦なような女優で、ただ彼女が結婚したのが貴族であった為にゲルマント公爵夫人のスノッブな芸術趣味とも相まって友人関係を結んだのだった。
 そんな朗読会にラ・バルマの娘が興味を持ってぜひ出席したいと母に頼んでラ・バルマは屈辱的な手紙を書いてラシェルに招待を願うのだった。そうしたサロンの人間関係の醜悪さを描きながら、ジルベルトとオリヤーヌという対決モードが、語り手は両方の親友でもあるわけで、いろいろな複雑な思いが蘇ってくるということで、長い長い語り手のとっての物語も終幕を迎えるのだ。
 最後に印象的なのはジルベルトに語り手が「若い娘を紹介してくんろ」ともうろく爺さんよろしく頼むのだが、そこで紹介されたのがジルベルトの娘であるサン=ルー嬢だったのだ。
 彼女こそが語り手の求めていた洗練され芸術を知る貴族の娘である気品と風格を備えた現代っ子だったという話。つまり彼女に取って、貴族の血は問題でもなく、自分は自分なのだという自信溢れるレディとなるような語り手が求めていた女性なのかもしれない。(2022.12.12)

『失われた時を求めて』の感想が書けなくて四苦八苦していた。なんかもう一度読み直さねばならないのかな、と。

「見出された時」は、老人文学で回想という様々な登場人物との出会いのエピソードが語られている。それは青春時代にただ一回性の直線的な時間ではなく、円環的な時間だけどズレがある。まさに、この小説は時間論についての小説でもあるわけだ。
 このズレの中に思考という芸術論が含まれているのだが。芸術は自然の模倣であり、再現性であるわけだが、ただ再現しているのではない。そこに個人のズレが生じるから芸術作品として個性が生じ、そこに共感覚を呼び込めば事物として生きる芸術となって育っていく。文学だったら読者がそれを育てていくというように。そうして繰り返されて読まれるのが文学としての芸術と言えばいいのか。そこには閉じられた美は存在しない。最初はそういう美があるのだろうと思うのだ。それが貴族に対して憧れだったりする。
 昔の貴族は王のために自己犠牲的に生きて称賛された。そこには死の観念がある。古典派の芸術論では死が大きなテーマとしてあるのだ。物語として死のエンディングは完結性を備えて物語の完成となる。それが「悲劇」だ。アリストテレスの『悲劇』とかそんな感じか。哲学の問題も似ているのかもしれない。
 プルースト『失われた時を求めて』も死が大きなテーマとして扱われるのだが、「見出される時」では生きて醜悪さをました者たちの姿である。そのズレがあるのだけれど、だから喜劇的な部分もあるのだ。シャルリュス男爵とか。ただそういう醜悪さも語り手は愛しいと思っていく。同じ時代を生きた者だから。そういう時代性の物語でもある。
 貴族が没落してブルジョアがのし上がっていく変節の文学なのだ。その対称性は、ゲルマント公爵夫人(オリヤーヌ)と高級娼婦であったオデットにある。オデットとスワンの娘ジルベルトがゲルマント公爵夫人が我慢ならないのは、そうした貴族社会の閉鎖性だ。もう一組上げるとサン=ルーとブロックの対称性。サン=ルーは第一次世界大戦で名誉の死を遂げるのだが、その反対にブロックはサロンの寵児となっていく。作家としての成功だった。それは語り手の文学とも共通するものだが、語り手は古典派時代の文学を愛するものでブロックのような新進作家は、スノップだと思っている。
 ただ、まさにこの社交界というのはスノップの世界だったのだ。そこに交差(コミュニケーション)するものを描こうとする語り手がいるのだ。
 語り手が結婚せずにそういう外部として血縁の物語を見出すとき、そうした2つの流れが交差する点がサン=ルー嬢だった。これは若い世代でそうした貴族性もブルジョア性も乗り越えていく世代なんだが。その世代を見守りながら語り手は一つの物語を見出していくのだ。そんなところだろう。(2022.12.13)


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