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図書館の邪鬼は消えさり冬時雨

プラートウがいない階段。いつの間にか図書館の黒猫の名前がプラートウになってしまった。アニメ『プラートウ』四話まで。これ『鉄腕アトム』だったんだ。そんなことを知らずにNetflixに勧められるがままに観ていたが、ウランが出てきてアトムが出てきて御茶ノ水博士が出てきた。それにしても変わりすぎだろう!ロボットなのに。浦沢直樹の画風なのか。

途中で『ブレードランナー』らしき作画が出てきて『ブレードランナー』の影響を受けていると思ったが『アトム』だった。もともと手塚治虫のアイデアだったのか?アンドロイドが人間に敵対していうSFはあったが、今の時代のAIロボットとか現実味を帯びてくる。それも戦争兵器として利用されるのだが。ただ人型ロボットというのはロマン主義的だとは思う。手塚治虫のロボット愛は人類愛みたいなものだと思う。

実際のAIは人間から学ぶようになっているから性善説とも言えないと思う。邪鬼が潜むんだよな。それを理性という力で押さえつけているのだと思う。図書館でさっそく『邪鬼の性』を閲覧したが、仏教以前のヒンズー教は自然神の破壊神が守り神として崇められていた。邪鬼の元は仏教以前のそうしたヒンズー教の神々でありヒンズーの神々が仏門に下ると低級な神々が邪鬼として扱われるようになった。ゲーム「女神転生」の世界だ。だから仏門の金剛力士に踏みつけられているのが邪鬼なわけだった。

その邪鬼の姿も時代と共に移り変わりがあるという。法隆寺の邪鬼はもともとは法隆寺のものではないらしいのだが、聖徳太子が仏教を保護していたときに建てられたもので相当古い時代のものらしい。その頃は邪鬼の表情も安定しているとか著者の水尾比呂志先生は邪鬼愛に溢れたエッセイが面白かった。

それが大津皇子が謀反で処刑された後に立てられた当麻寺の邪鬼は四天王に踏まれているのが台座としての大きさが小さくなっていて不安定そのものだという。聖武天皇(天武かな、このへんいつもごっちゃになってしまう)の苦悩が現れているとか。邪鬼も台座になっているのにもいろいろ変化があるのだということを知った。

邪鬼は人間の深層にある欲望だから踏まれるにしても意味があるらしい。単なる疫病神でもないのだ。このへんの仏教思想はやっぱ後に出てきた宗教だけによく考えられている。

『邪鬼の性』は図書館で閲覧することにして借りなかった。読まなければならない本がたんまりあるので。

シェイクスピア『リチャード三世』は以前読んだのだが、『リチャード二世』と感想がごっちゃになってしまったので読み直し。『リチャード三世』は悪王だから面白いのだった。欲望の思うままに進むが最後は倒される。映画『ロスト・キング 500年越しの運命』ではシェイクスピアの戯曲はチューダー朝の陰謀だというのだが、そのように読むと面白いのかもしれない。ジョセフィン・テイ『時の娘』なる小説もあるのか?

『チェヴェングール』は、「チェヴェングール」という共産主義を目指す理想郷が次第にヤバい状況になりつつある。それは反ブルジョアをスローガンに上げるのでなんでもブルジョアが台頭してくるものは削除しなければならないという機械的思考に陥るのだ。上層部の命令をただ伝えるだけのシステムになっていくのだが、科学者さえも排除していく。知的エリートはブルジョアを呼び込むとしてそれを排除してしまうのだ。人民は思考しなくなり、上部の命令をこなすだけになるのだが、思考せずにただ排除に躍起になっていく。その指導者が日本人と呼ばれるのが興味深い。50p.ほど読んで350頁を超えてやっと半分を超えたところ。600p.あるから、これを返却期間まで読んでしまいたい。ちょっと無理かもしれないな。多少延滞になるかも。

映画。フランソワ・オゾン監督『私がやりました』はコメディ・映画で面白かった。疲れている時は笑える映画がいい。

雨が降っているな。朝は立ちくらみがあった。最近寝起きはいつもそうだった。

今日の一句

図書館の邪鬼は消えさり冬時雨れ

今日の一首。

邪鬼を払い黒猫去った階段は運慶・弁慶 踏まれ仏門

最後合わすのが難しい。リズムかな。

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