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男尊女卑の天皇制に洗脳された者たち

『窯変源氏物語〈12〉椎本 総角 早蕨』橋本治 (中公文庫)

平安朝の美人の条件は、身分が高いこと。後ろ楯がしっかりしていること。教養が高いこと。だから顔の造形は美人の第一要素にはならない。(椎本/総角/早蕨)

光源氏の一人称から紫式部の三人称に変わったことによって敬語が多く回りくどい表現が多くなったと思われる。また女房たちの世間という視線と天皇制による階級社会の世界という綾が大君と薫、中君と匂宮との恋愛に複雑に絡み合う。

椎本は、一つの木(八宮)に幹が二つ(大君・中君の娘二人)に分かれているという構造を示しており、八宮が自身の死後、二人の姫の今後を心配して薫に打ち明け託すのだが、姫たちには二人だけで生きていくように(男の欲望に惑わされるな)と遺言していくのだった。薫が八宮の本心を読み取れなかったのか、それは大君の欲望になっていくのだ。

夕霧が「落葉の君」のあとを柏木から頼まれるのだが、結局欲望に走ったのと一緒だと思う。それも薫の血筋なのか?それで悲劇的様相になっていくのだが、匂宮はトリックスター的なのかな?

それは八宮の聖になれない俗世間の父なる欲望は、薫の仏道の師としては不完全過ぎた。それは薫に娘を頼むといいながら欲望は持つなというダブルバインド(禅問答的な)にかけるのだが、その面倒を見ることはない。さらに娘たちには男に騙されれないで自立していけと言うのだから大君はガチガチに父の洗脳を受けていたのである。それもバインド(鎖)であって、八宮の鎖に縛られた二人なのであった。

そもそも「総角(あげまき)」という組紐は「総角結び」という人形(ひとがた)であり、それは神への捧げ物を結ぶものだと思う。「総角(あげまき)」は「ウェイリー版」では大君になっているのだが、それは男の捧げ物としてだった。

総角や さて総角や
広げた腕のその先の
尋の隔ては よいけれど
さて 総角や
寝ぬる隔てはよいけれど
さて 総角や
くるくる転げて よーいよい
一つ所に よーいよい
寄りも合いけり よーいよい
さて 総角や
さて 総角や

という催馬楽の女を手籠めにする歌があるのだ。その歌を自身の立場と思って悩む大君だが、妹の中君へは生贄(それが女の生きる道というように女房たちはいい、八宮と女房の世間の間で帰路にたたされる。そのときに姉妹は一心同体なので中君を自身の片割れ)として薫に捧げるのだが、薫は大君を手籠めにしたいので匂宮に譲るという話だった。それで大君の罪の意識というより、自分がこのまま老いて八宮の遺言通りになるのは女房たちの噂に耐えられない(行き遅れのババアみたいな)と病に犯される(ほとんど精神病のようだ)。大君はそういう美意識だった。総角がもともと引き出物の飾り紐の意味で、その紐の綾の物語が「総角」ということだった。

妹のウェイリー版の呼び名「コゼリ」は籠のような入れ物でそれでお届け物をするというような意味なのだ。結局、中君は匂宮に嫁がされることになるのだ。

姉妹では中君の態度のほうが自然だと思うが、大君も薫も中君のためにといいながら自分たちでコントロールしようとする。それは八宮の不完全な欲望と一緒で大君が八宮が仏道に辿り着けないと彼岸(死)に呼び込まれてしまうのだった。薫にしても階級社会で生きるしかないので匂宮の欲望の家来であるしかなく、煮えきらないとされる。

匂宮はトリックスター的その中でも欲望に自由に振る舞えるのではないか?その違いが薫の悲劇と匂宮のいい加減な性格だが中君となるようになっていく。大君が中君と一心同体であると薫に託すものの、中君は大君が嫌う浮気男の匂宮の方がマメ男の薫よりいいと思ってしまう。

早蕨は二人の男が結局はゲームのように振る舞っていたというような後日談なのか?中君の嫁ぎ先が決まって、薫は大君がお膳立てしたのに中君と関係になれなかったのを後悔するが、匂宮に対してはプラトニック・ラブだったと主張するのだ。結局、男の捧げ物だったという落ちなのか?

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