短歌レッスン64
啄木は神童と呼ばれ続けた頃をすぎて、東京の最初での生活は惨めな結果となった時の歌。東京新聞に掲載されたのは下の句が「昨日の我を笑う悲しみ」となっていたそうである。
わかりやすいぜ、啄木!
自由というのは愛されないことなのだな。不自由な愛と愛のない自由。どっちもどっちだな。「咲け」は未来的にポジティブなんだが、もう「散れ」の領域だから、どうしよう。
「恋人はなお」が言いたいだけの短歌のようにも思える。この人は、『短歌 2022.7』では社会詠を詠んでいたんだよな。
総題が「歴史の壺へ沈んでいくのだ」だった。永遠に若くはないんだよな。
「雲」を擬人化しているのだという。そう思うとしみじみ。
こういう歌を歌う人の今の歌を読んでみたいという悪趣味に憑かれる。ファンタジー系の人だった。
別の意味でのファンタジー系の歌人。シュールな情景を文語の雅さという感じか。葛原妙子の系譜だろうな。「幻視の王女様」
青年時代に短歌を詠めた幸せを噛み締めてもらいたい。
自転車の後ろに乗っているのか?体育か何かの時間にすけべな手が伸びてきたのかと思ってしまった。青春短歌だよな。ただ羨ましい。でも「横座り」の危険性を理解してないな。バランスが悪いのだから。
最近の若造はこんな短歌ばかりだと思ったら1942年生まれだった。60年安保世代だから、かなり新しかったのだろうな。マシュマロとは今は言わないな。ひらがな書きも照れ隠しみたいなような気がする。マシュマロは食っている最中だった。それを思うとちょっと変態チック。
「玉川上水」は意味がわからん。太宰治の情死が絡んでいるそうなんだが。
これもよくわからない。お茶がまずいというのは淹れ方か誰かと相席しているかと思うのだが、それが「いとおしい」になるのだ。かつて誰かと飲んだお茶ということだった。その相手がいとおしいのだと。回りくどい歌だった。
『短歌の私、日本の私』坪内稔典編
今日から短歌本を読み進めていくことにした。とりあえず最近悩みの短歌の「私(わたくし)性」についての本。
『「私」の変容』永田和宏
『万葉集』は天皇の代わりに歌を詠む歌があり、天皇の歌とされるものでも、歌人が詠んだものがある。それは天皇の地位というものを、衣装的に歌で高め、飾る必要があったからだ。天皇の威厳ある姿とか。それで歌人は天皇の姿ばかりではなく、予言的(巫女的)な歌を詠むのはそう願いたい祈りのような気持ちからだという。
それが言葉にすることで実現可能になる言霊というもの力だ。例えば私がパフェを食べるぞとここで決意するとそう仕向ける自分の中に言霊としてパフェが宿るというような。実際はここで宣言したからには、やってみようと思う気持ちなのだが、それを予言的と言っているわけだ。出来ないかもしれないし。
例えば、額田王の有名和歌。額田王は王となっているが女性で天皇の妻とされるが当時は一夫多妻だから歌人としての妻みたいな役割だったのだろう。
『万葉集』が歌謡と区別されるのは、個人名の元に歌が詠まれるからだ。代詠であってもそれは天皇の個人名とされる。役割としての天皇は、個人名はあまり関係ないはずだ。例えば昭和天皇と平成天皇とか象徴名で通用するのだが、『万葉集』という歌集では署名が必要になる。それを天皇の名で詠むのは巫女的な流れであった。しかし、最も偉大な歌人といわれるのが人麻呂が天皇の歌以外に挽歌として人麻呂個人の歌を歌った。
『万葉集』ではそうした「われ」の出てくる歌が後の勅撰集である『古今集』や『新古今集』よりも多いという。それは「われ」を歌うことへの意識化が行われた先駆者たち、例えば人麻呂の偉大さは改革者としてあるのではないか?それまでは王のためのお抱え歌人という立場だったのだ。
『万葉集』はそうした個人が表れてくる歌集でもあった。そして『古今集』からは、歌は貴族の遊戯的なゲームとなっていく。それは相聞歌でもそうなのだが、駆引きという歌のゲームとして感情を朗々と歌い上げるよりも技術として、襖絵や自然の情景に託す歌が多くなるのだ。そこで再び「私」は歌の背後に隠れることになる。
正岡子規が近代短歌で目指したのは小手先にレトリックよりも感情を朗々と歌い上げる『万葉調』だった。それは日本に近代化がもたらされると共に「自我」というものがもたらされたからだという。しかし子規は写生という概念によって日本的な「私性」を背後に隠すことをした。もう一つの短歌の流れとしてロマン主義的な与謝野鉄幹らの「明星」派がある。これも近代文学としてヨーロッパ的なものを輸入(翻訳調)していた。それは近代の和歌の革新運動が「和する形式」からの脱却をはかったのである。
今はまた短歌がゲーム的に内輪になっているという現状分析。
「うたの日」お題
もう9時近くだった。「うたの日」のお題見てもやる気が出ないぐらいにスランプ。
「リス」「数」「後ろ」「牢」「うなじ」「実」「通過儀礼」「今」「ままごと」
欲求不満が溜まっている。そういうのを発露した後じゃなければ冷静に短歌を詠めなくなっている。まず自分のためだと思うことだ。承認欲求されるのはここではなく別の場所だ。そのための踏み台にしか過ぎない。散々痛めつけられてきたのだから。
今日の俳句からだが後ろが入ってない。
プロメテウスとプロテウスをごっちゃにしてしまった。気付いた時にはすでに遅かった。名前が紛らわしい。でも違いがわかったことで良しとしよう。どうせ、どんまいだ。
よくわからん。
適当になってきた。こんなんじゃ出かけられないじゃないか?
「通過儀礼」
結果
今日はプロメテウスとプロテウスを間違えたのでどんまいだと思った。♪一つ。でも間違いのコメントがないのはしかとされているようでそれはそれで哀しいものがある。まあギリシア神話に興味ないんだろうけど。比喩でも暗喩は駄目なんだよな。いろいろ読めると思うのだが。
リスが埋め忘れ去られた木の実から芽吹く命のやうなわたくし
『 リス 』 外村ぽこ #うたの日 #tanka http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=3165i&id=17
比喩だな。比喩の使い方も研究しなければ。
福引券でした。日常短歌だ。
ネガティブのようだけどな。チェロになるのはよくわからないけど。甘美な音色ということか?
これも比喩だけどドトールが牢獄ってどういうことだ。それも昼のドトールって。
これも直喩だった。
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