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詩人としての「ドン・キホーテ」

『ドン・キホーテ 後篇2』セルバンテス , (翻訳)牛島 信明 (岩波文庫)

青春18きっぷが2日余ったので、行く場所は決めないでただ電車の中で読書するという目的のお供に『ドン・キホーテ』を持っての読書の旅は、ドン・キホーテの遍歴とローカル線の相性の良さ(新幹線ではドン・キホーテの遍歴にはなるまい)に笑って泣いてというようなストーリーテーリングの面白さ。この巻はドン・キホーテが騙される回であり悲惨この上ないのは、ドレの傷ついたドン・キホーテの姿として描かれている。それに比例してサンチョ・パンサはますます饒舌になり読者を翻弄していく。この巻はサンチョ・パンサの方が主役になっていた。(2023/09/10

『ドン・キホーテ 後篇3』セルバンテス , (翻訳)牛島 信明 (岩波文庫)

ドン・キホーテの騎士道物語は叙事詩であり、それを批評するサンチョ・パンサというメタ・フィクションになっている。ドン・キホーテが手本にする騎士道物語は、古くは「アーサー王の騎士道物語」だが元々は韻文だった。それがドン・キホーテに感化を与えるのだ。

その反面、サンチョ・パンサの言動はドン・キホーテの批評として語られる極めて現実的な農民なのである。それを異教徒の書いた物語の翻訳としているところが入れ子構造になっていて。それは騎士道物語に対しての大衆文学的な散文として描かれている。

さらに贋作まで登場してくる始末だ(これは現実にあったことで贋作の登場人物が登場してきてドン・キホーテに否定される。)。現実さえも物語に取り込んでしまうスタイルは大江健三郎に受け継がれていく。

セルバンテスから影響を受けた現代作家ナボコフや大江健三郎にそのメタフィクション的喜劇的諧謔性は受け継がれていた。ナボコフは『ドン・キホーテ』をテニスの試合に例えていたがラスト近くにテニスの喩えが出てきたのには驚いた。ドン・キホーテを騙す公爵夫妻は大江健三郎『憂い顔の童子』で模倣されていた。

また思い姫のヒロイン(ドゥルシネーア・デル・トボーソ名前は覚えにくい)がイメージとしてドン・キホーテの愛する主人となるのはキリスト教的な説話のようだ。ヒロインがイメージだけで最後までヒロインであり続けるのだ。実際には登場するシーンは無いのに。つまりドン・キホーテはどこまでもイメージを語る人なのである。そしてそれを行動に移してしまうから喜劇になる。

しかし敗者となったドン・キホーテが騎士道精神から牧歌的なイメージ(羊飼いになるドン・キホーテ)をサンチョに語るところなんてドン・キホーテの詩人らしさを現している。いまさら騎士道でもないだろうと批評していたサンチョ・パンサもそのイメージの虜になってしまうのだ。

そして帰還してドン・キホーテはもはや失われた詩の中にしか居らず、本名のアロンソ・キハーノに戻る(狂気からの帰還)。それはすでに一人の詩人の臨終でしかなく、大いに胸に込み上げてくるものがあった。批評家であったサンチョ・パンサもドン・キホーテの遍歴の従者だったことに気がつくのだ。そして読者も。

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