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ナボコフの「ドン・キホーテ」はテニスをする!

『ナボコフのドン・キホーテ講義』ナボコフ,ウラジーミル/【訳】行方 昭夫/河島 弘美

幾百年の歳月のなか、数多くの解釈にまみれてきたドン・キホーテ。憂い顔の騎士の真の姿を見つけるべく、ナボコフは物語を解体する。永遠の古典をあざやかに読みかえる批評の精髄。要約付。
目次
1 ドン・キホーテ講義録(二つの肖像、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ;物語のしくみについて;残酷さと瞞着について;セルバンテスと偽作者;勝利と敗北)
2 ドン・キホーテ物語と批評―ナボコフ流要約

二部構成で「講義」と「批評」。講義では最初は『ドン・キホーテ』は大した物語ではないと言っていたのに読み進めるうちにセルバンテスの緻密さに感心していく。他のレビューを見たがナボコフが『ドン・キホーテ』を貶しているだけだと思っている人がいた。ナボコフの尊大さで、俺様が一番だみたいな言説だから、実はそれは逆説的に作品を褒め称えたりしているのだ。

例えばドン・キホーテの闘いをテニス・プレイに例えた説明が面白く、最終ゲーム(5セット目)で負けたとか説明する。意外にドン・キホーテは20勝20敗のいい分なのだ。それはセルバンテスがそれだけ構成的にしっかり書いているのであって、ドン・キホーテの性格とは別だとする。

また語り手も「ドン・キホーテ」を書いたムーア人を翻訳したスペイン人という構図で、訳せない部分があるのだとか。これは後編から引っ張ってきたことだろうか。自分が読んだ本は簡略版だったのはその説明はなかったと思う。ナボコフは上から目線で発言しているので注意が必要だ(これはナボコフの『ドン・キホーテ』ということ)。

ナボコフは単なるドン・キホーテの滑稽譚でもなく痛みを伴った夢の話だとする。小説の主人公は夢が行動原理になるのは、優れた小説の原理なのだという。ドン・キホーテの論理は妄想(一般的には妄想・滑稽譚として読まれている)として読まずに、夢として読めば論理性が感じられるという。そして現実は夢を潰していく痛みを伴う社会なのだと。

『ロリータ』もそういう原理で書かれているのだろう。他者から見れば笑えるところも本人たちは真剣なのだ。人間はもともと残酷な動物であり、他人の不幸を笑いたがる。それが講義で一番主張したかったことかもしれない。しかしドン・キホーテは人から笑われながらも浪漫ある遍歴の騎士として夢を語っているのだ。それは偉大な小説の登場人物はみなそうであるだろう。だから単なる滑稽譚だけではなく、ドン・キホーテに惹かれるものがあるのだ。

ナボコフは最初は『ドン・キホーテ』は大した小説ではないと言っていたが深く読み進めるうちに『ドン・キホーテ』の論理性を見つけ出すのだった。それが妄想ばかりではなく、一つの夢の実現の話だった。それは登場人物が行動する原動力になっていく。物語の行動パターンはここにある。

またそれを助けるサンチョ・パンサも愚かな田舎者として描かれているが、実は体験によって論理的な言動でドン・キホーテを批評する人物なのである。そこがドン・キホーテが妄想ばかりの頭でっかちの人物(ほとんどそうなのだが、サンチョ・パンサがお供しているから生きながらえるのだった)だけではなく、サンチョ・パンサを伴いながら一つの夢の実現を遍歴していく騎士なのだ。驚いたことにそれはセルバンテスの物語を成功に導くのだ。そして偽ドン・キホーテ本まで出てくることになっていくのだ。

例えば「シン・仮面ライダー」が新たな仮面ライダーと戦うストーリーはすでにドン・キホーテの中にあるのだった。また作家がそれ以前の本を批評して書き直していくメタフィクション・スタイルの小説だった。これは、大江健三郎「晩年の仕事」の方法論で、すでにセルバンテスの『ドン・キホーテ後編』で試みられていることだった。そんな先見性のある文学だから未だに『ドン・キホーテ』は現代の文学として読まれ続けるのだろう。特に方法論的な作家は「ドン・キホーテ」が好きなのである。カフカもドン・キホーテについて語っていた。それぞれの作家の「ドン・キホーテ」がいるのは多様なカフカ解釈と同じなのかもしれない。


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