シン・短歌レッス52
今日の一句
東京湾でクラゲが大発生しているという。いつも見る大岡川も大量のクラゲの写真がアップされていたので撮りに行ったのだが一匹しか見られなかった。みなとみらい近くだから海に近い所に行ったのに残念だ。せっかく俳句まで作って行ったのに(逆だろう!)
海月を花筏ならぬ月筏に見立てたのだが。イメージとしてこんな感じ
斎藤茂吉の短歌
塚本邦雄『花月五百年』。塚本邦雄が斎藤茂吉について述べた本でも初期歌集に収録された短歌で『赤光』を改変するときに削除された短歌について述べていた。
その削除された短歌こそが茂吉の本質である浪漫性が育まれており改変される『赤光』は「アララギ」の写生歌という趣を示しただけに過ぎない。つまり斎藤茂吉の凄さは浪漫性にあるのだが、「アララギ」に合わすためにおもねってたということだと解釈する。それは茂吉の定家批評と相通じていて、定家の『源氏物語』からの本歌取りは写生に反する。つまりその一方で西行の潔さを褒め称えるという西行理解(それは凡庸な論だと塚本は言う)は技巧的な『新古今集』より素朴な『万葉集』という「アララギ」のスタイルを取った。
「新古今=幽玄=定家=幻想=象徴=明星=白秋」という短歌の流れついて述べて、それを茂吉は葬った。それは極めて「叡智の蛇」(蛇は悪魔の使いだが人間に知恵を与える)というべきものだったとするのだ。「アララギ」の正統短歌というものに対する異端として塚本が削除された短歌を顧みるというのはそういうことだった。定家嫌いじゃなかったのか?
塚本邦雄『花月五百年』から和歌(短歌)
なんだかんだで塚本邦雄から離れられない。まずわからなさがあるのだが、それは和歌(短歌)のわからなさと共通しているのかもしれない。塚本邦雄はアンチ正岡子規なのかもしれない。
佐々木幸綱は短歌の正統に属する人だが、この歌の本歌は人麻呂や家持でもなく藤原良経『続古今集』からの賀歌からであることに注目する。
本歌取りとしてみた場合、前句は全て本歌から、後句も似たような内容なので出来が良いとは思わない(本歌の方が優れている)。ただ賀歌として見た場合には和する歌としての体裁を保っているのか。それでも直立というには寄りかかり過ぎだろうと思うのだが。「倚りかからず」という茨木のり子の椅子の詩があったな。
源実朝のうたは正岡子規の評とは真っ向対立して、この歌は文弱武士の戯言のようだが、それでも歌として体を成していた。
それは藤原俊成が慈円との歌に比して、藤原良経の歌を「戯れ歌」といいながら体を成していたので持(引き分け)にしたのだった。今では名歌とされているという。
死は詩歌の最後のテーマであり、死はあらゆる歌の傑作を予感させるが真の傑作は少ないという。この歌がそうであるという。よくわからん。
何故、槇かと思う。たまたま植えたのだろう。槇は植木としては手入れは簡単だった(松に比べ)。それでも放っておかれた状態なのか?喪主の怠惰だろう?
硝子街はミラノのヴィットリオ・エマヌエール街だという。うぜえ!こういう知ったかぶりが塚本邦雄嫌いな原因かもしれない。どこだっていいじゃないか!「ガラスの街」といえばジュン・スカイ・ウォーカーズの歌だった。それにしてもこの短歌はセンチメンタル過ぎないか?霜の意味もようわからん。霜降るまで泣いているということか?霜は死を意味するという。
詩歌は贅沢三昧の希求を歌ったのが詩歌であり狂言綺麗語こそが美のなりわいとする。その定家の歌である。榊のみずみずしさという。暁と共に上る明星の美。「身に沁みる」ほどの寒さゆえ。
イタリア旅行での情景か?黒貝は、ムール貝かな?臭くて食べれないというから檸檬をかけるのではないのか?料理してあるのか?ムール貝といえばパエリアを想い出す。でも塚本邦雄の解釈の強引なことと言ったら、どこからダンテやペトラルカが出てくるんだよな。その詩を示せと思うんだよな。示したら示したでこの知ったかぶりと想うのだが。だいたいムール貝というと東京湾の汚い海で取ったムール貝を思い出してしまう。火で炙れば食べられると言ったが。
前句は貧しい田園風景だという。結句のソネットが西欧趣味で幻想譚に一変するというのだが。そら豆の豆が母という言葉を呼び覚ましソネットを歌うのじゃないか。豆の殻を亡骸と捉えるのが塚本解釈。
兵隊詠だが安易に反戦歌とは捉えるなという。国家権力より人間の性に暗澹たるものがあらわれた歌だという。反戦歌でいいんじゃねえ。夕暮自身が後に日本文学報国会短歌部会の幹事長になっていた。反戦歌とは言えないのか?単に感傷的になっただけだと。
尾崎放哉の句
今日も渡辺利夫『放哉と山頭火』の自由律。塚本邦雄の短歌批評の装飾性にうんざりしてくると放哉の自由律はしみじみと染み入る。まあダメ人間の類だが。
結局、一燈園に戻ったのかその後に他の寺に潜り込んだのか空腹を抱えながら草むしりをやっている情景を詠んだ句だった。素直すぎる句だが、辛さがよく出ていると思う。俳句だけはいい句が出来ているような気がする。塚本邦雄はこういう境地と逆なんだよな。
普通だったた三味の音を聴きながら俳句でも詠みそうだが、そこは一般人なのだろう。わざわざ三味を止めさせるとはどうい権限があって言えるのかと思ってしまうが、三味をやっていた人も素直に言うことを聞いてしまうような凄みがあるのかもしれない。三味は芸姑ということだというのだが、誰が金を払ったのだろう。不思議な句だ。
もうなんでもない句でも尾崎放哉が作ると凄みを感じてしまうのだろうか?
そういえばこの頃はもう奥さんと別れたのかな。その記述がなかったが、一燈園に入った時点で出家のようなものだったのか?放浪生活にも限界して、ふたたび一燈園に戻ったということだった。それでも台湾に行きたいとかほざいていた。井泉水(せいせんすい)が自由律に才能があるというのでなんとか生きてもらいたいものだと面倒をみたようだ。
台湾行きはあきらめて、井泉水の勧めでふたたび京都の寺に入る。そこの和尚は遣手で事業を広めるために放哉をあっちこっちと使い走りさせるので、肺が悪い放哉は井泉水に泣きつく。井泉水は自由律を広げるために全国へ行脚して、小豆島なら放哉は住めるかもとそれで小豆島に行くのだった。やっと謎が解けた。放哉が小豆島だったのだ。その時に井泉水が送りだした句は。
井泉水は酒を飲みすぎて失敗を重ねる放哉に忠告したのである。しかし、またしても酒で失敗を重ねる。それは放哉が名前だけは自由律の才人だと知れ渡っていたので句会などに呼ばれて行くと悪酔いして迷惑をかけるという風だった。そして、また小豆島の井泉水の知り合いの所にもどる。
そんな句を残しているが、もうみんなから見放されていたのかと思ったが小豆島の人は優しかった。放哉に庵を提供して面倒を見てくれたのだ。それは放哉の性格というより句の力によるものだと思われる。誰もが放哉の句だけは褒め称えるのだった。
ほとんど晩年になるとその姿も凄絶だった。
映画短歌
『TOCKA(トスカー)』
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