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『ひろしま』を超える「ヒロシマ」の映画はない

『ひろしま』(独立プロ/1953)

長田新編の「原爆の子」より『雲ながるる果てに』の八木保太郎が書下ろしたシナリオを『混血児』の関川秀雄が監督。

物語 戦後、何年かを経た広島。ある高校の英語の授業中に、女生徒・大庭みち子が鼻血を出して倒れる。原爆症のためである。「この中に被爆した者はいるか?」担任の北川先生の問いに、生徒の三分の一が手を上げた。原爆投下の当日、彼らは小学生だった。残酷な惨状、地獄のような光景がそれぞれの胸に甦ってくる。 がしかし、今の広島では平和記念館の影は薄れ、街々に軍艦マーチが高鳴っている…。あの日、みち子の姉・町子は米原先生や級友たちと元安川に逃げ、皆と一緒に死んでしまった。みち子は爆風で吹き飛ばされ、弟・明男は黒焦げになり…。

解説
長田新 編の「原爆の子」より『雲ながるる果てにの八木保太郎が書下ろしたシナリオを『混血児』の関川秀雄が監督。日教組が、多くの困難を乗り越えてこの映画を完成させた。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後の惨状、その後の被災者たちの苦しみを、執拗なリアリズムの映像で再現している。
どんなに悲惨で残酷な光景でも、過ちを再び繰り返さないためには目をそむけることなく、しっかりと事実を見つめ、記憶にとどめておかねばならない。この映画で描かれた広島の惨状の記録性は、貴重な資料として残る。

最初に見たのが2015年でした。アラン・レネ『二十四時間の情事』で『ひろしま』の映像が使われていると知って興味を持ったのだ。その前にWOWOWでこの映画の制作過程のドキュメンタリー「いま甦る幻の映画『ひろしま』」を見たのだった(とツイートしていた)。最初はTVで見たようだ。

ノンフィクションW いま甦る幻の映画「ひろしま」 https://www.wowow.co.jp/detail/107219 #wowow

五社協定で松竹で公開予定だったが、カットせよと言われたシーンが3つ。最初のエノラ・ゲイの爆撃シーン。書籍の欧米人の日本人差別を論じたシーン。そして、浮浪児たちが生活のために墓を暴いて髑髏を売るというシーン。最後のシーンは広島の現実問題として、過去というより現在の問題として。

『ひろしま』が制作された当時も「ヒロシマ」の記憶は風化していた。だから最初の高校でのディスカッションシーン。被爆者とそうでない者の違いを問い、現実に今ある原爆後遺症を問うのだった。それは今でも続いている。

それとラストに流れる音楽は『ゴジラ』にも使われた曲で作曲者の伊福部昭が転用したものだった。伊福部昭は新たに『ゴジラ』のために曲を作ることは出来ないとして『ひろしま』の曲を流用したのだった。『ひろしま』は『ゴジラ』の母であり、髑髏を商売にする浮浪児はやがて『仁義なき戦い』の世界に彷徨うのである。さらにフランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えているのだ。そしてそれを作ったのが広島市民(日教組中心でいろいろ言われるのだが)がラストに参加する平和行進のデモのエキストラの数は8万とか。桁外れである。

今持って古びないのは、戦争の悲惨さがどこかでも起きている限りヒロシマの悲劇は今ある問題だから、目をつぶっていてはいけないのである。「映像の世紀」でさえ残酷なシーンがあると注意書きが必要な今だから見る必要がある。ドイツ人はアウシュヴィッツを見ないようにしていたからドイツ市民が悲劇を知らなかったと。そして、戦後ユダヤ人収容所を連合軍によって見せつけられたのだ。今でもアウシュヴィッツ映画が作り続けられている現状(今年だけでもすでに二本観た。もう一本公開予定。)日本はどうだろうか?

『ひろしま』以上の映画が作られない現実がある。もっとこの映画に挑戦すべきだと思った。アウシュヴィッツ映画のように。今の若者が興味を持つように、例えばコメディにしたりドイツ人全員暗殺というような映画にしたり、賛否両論はあるだろうが、そのことで社会に知らせることは出来るのだ。

最近観た台湾映画、『返校 言葉が消えた日』もゲームからホラー映画として弾圧の歴史を伝えている。確かにまともに伝わってない部分もあるかもしれないが、そのときこそ過去の映画が生きるのだ。日本でも詰らない戦争映画は作られるがその度に『激動の昭和史 沖縄決戦』の凄さがわかる。アニメ『ガールズ&パンツァー』の話題で新書『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』もベストセラーになっている。『鬼滅の刃 ヒロシマ編』とか作ったらいいのだ。

まあ、とりあえずそういう映画はないのでデジタルリマスターされた『ひろしま』を観ることを勧めます。


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