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ああといいまあという猫春の恋

昨日は予定通りなのか引きこもっていたな。寝てばかりいるから関節痛になっている。筋肉も硬直しているのか、足が攣る。

家では俳句本と短歌本と読書を少々。映画も熊井啓『帝銀事件』を見たが途中で寝てしまった。ドキュメンタリー手法で感情移入を廃するドラマのように思えた。それだからけっこう論理の積み重ねの映画だからか見るのも疲労してしまう。それが報われることなく未解決事件となるのだから。NHKの「松本清張の『帝銀事件』未解決事件」は松本清張という視点が感情移入のポイントとしてあるのでドラマとしてわかりやすいのだ。熊井啓『帝銀事件』もほとんど同じテーマだと思うのだが、監督に感情移入するというのは難しい感じがする。せいぜい記者ぐらいなものなのだが、その記者もGHQという権力の前では虚しい存在なのだ。結局事件解明へと進むわけではなく徒労する映画になってしまったのだと思う。ただそれは無駄な映画というわけではなく、そうした告発していく映画が必要だということだ。

松本サリン事件を扱った『日本の黒い夏─冤罪』もこのスタイルだったがこれも感情移入しにくい映画だったような気がする。

佐佐木幸綱『日本的感性と短歌』尼ヶ崎彬「短歌と詠嘆ー短歌という形式ー」。これは短歌の詠嘆という言葉にならない感情が共感していくのかが丁寧に解説されていた。日本人は同調していくのは、そこに詠嘆という表現によってああとか、まあとか同調していくという。それは和歌でも長歌と短歌があったのだが、理屈を積み重ねていく長歌が消えていき、一行の言葉で詠嘆して見せる短歌が生き残っていくのである。それは歌に感動してというよりも歌という手本があって、つまりその優れた歌が勅撰集なのだがそこに同調していく。季節とか恋とかの言葉がマニュアル化されていくのである。

それは和歌よりも先に『和漢朗詠集』があったのだが、そのテキストはまさに朗詠することで感動を共有していくというテキストなのである。そこには漢詩と和歌が並列されているのだが、漢詩は和歌と同じ長さぐらいに、つまり朗詠することに適した長さに切り取られているという。漢詩の絶句なら起承転結という論理性があるのだが、長いので転と結ぐらいの白文集(白居易の詩の用例集みたいなものか)にしているという。そこに和歌を重ねて、これが詩の心なんだと権威的に示す。それが明治の近代化では個人主義というのが入ってくる。これは例えばフランスの象徴詩などが日本語に盛んに翻訳されて自我というものに目覚めていくのだが、その「象徴」は詠嘆ではなくイメージを言葉と繋いでいくのである。そこに思考という展開が必要だし、単なる詠嘆の詩ではないのだ。そこが日本の近代詩が出てきたところで、短歌的表現はそこを踏まえていないというのだった。ただその詩も詠嘆調が主流になって全体主義化しているのだが。現代短歌もその詠嘆のリズム(調べ)との格闘していたのだ。それが塚本邦雄らの前衛短歌なのだが、次第にまた詠嘆の方になっていくのは短歌のコピー化という流れのような。それは俵万智が当初はそう言われたのだが、今では古典として残っているという。

今日の一句。

ああといいまあという春猫の恋  宿仮

季重なりだった。自由律だからといいとしながら、最近、定型化しているんだよな。恐るべき七五調。

ああといいまあという猫春の恋  宿仮

これだと季重なりは避けられるな。猫は象徴だし。


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