見出し画像

廃車するドアミラーに写るオン・オフの世界

私達の時代になかったものは「ハロウィン」がありますね。コスプレ人気も若者に受けたのか?幼稚園では当たり前になったのか?スーパーのレジ係が「ハロウィン」仕様だったりします。渋谷で2.3年前に大騒動になった時に出くわしました。ほんとにひどかった。たまたま映画館の帰りでしたけど人混みでちょっとハロウィンが嫌いになりました。

本来は子供を悪魔から守る為にコスプレをするのだとか?そうして子供の成長を願う。それで近所にその格好で挨拶周りをして、お菓子を貰う。以前、アメリカで日本人の学生が銃撃されるという悲惨な事件もありました。もう隣近所も容易に近づけない社会になっているから渋谷で大騒ぎするのか?そう言えば渋谷の地元民ではなく、大騒ぎにやってきたのは埼玉や神奈川住民らしいです。

そうだもう一つ思い出したのは川崎で仕事している時にパレードで交通規制があったのを思い出しました。今はハロウィンに無縁の生活を送ってますね。クリスマスも正月も。正月は餅ぐらいは食べるかもしれない。初詣には行きませんけど。

隣近所の関係が険悪になる映画を昨日見ました。これ結構面白かったな。予告編で日本では隣近所が仲良くする映画もやっていて、その差を感じてしまう。

まだバブル以前はそういう付き合いも残っていましたね。隣の子がばあば、じいじと呼んで、父や母に懐いていた。まあその世代がボケ老人になってしまうのだから容易に近所付き合いも出来ないのでしょうね。そういう時代が懐かしいとも思わないし、今はそういうの面倒だと感じている一人暮らしだから。

初めて一人暮らしをした時に隣の兄ちゃんがステーキをご馳走してくれたことを思い出しました。部屋に友だち(女子を含む)を連れてきたときに変な目で見られたな。そのアパートを立て直すので、引っ越したのだけどそこはうるさい親父がいる部屋だった(喘息気味なんで咳やジャズを聞いていると壁を叩かれたり文句を言われたり)。

最近はアパートの三階の階段が億劫になっているので引っ越したいのですが部屋が片付けられない。本が溢れかえっているのです。

図書館に2冊返却して、2冊借りました。穂村弘『シンジケート』と『戦後詩のポエティクス』。

読書は『シンジケート』をぱらぱらっと。最初がカレンダー短歌で12月から11月まで詠んでいた。そういうところから短歌を始められるので興味深いですね。10月の短歌はなかなかいいんです。

錆びてゆく廃車の山のミラーたちいっせいに空映せ十月  穂村弘『シンジケート』より

なんかこう短歌を作ってみたいという気持ちにさせられる。俵万智『サラダ記念日』が出てきた時も女子の間ではそうだったのでしょうね。わたしが短歌を作りたいと思ったのは『平成万葉集』とかいうNHKの番組を見てからでした。それから短歌よりは俳句の方に行ったのですが、最近は短歌にハマっている。一つは俳句の旧態とした感じなのですが。俵万智や穂村弘が出てこなかった。実際は改革しようとしていた寺山修司とかいたようですが俳句の閉鎖性に短歌に移っていく。その短歌も閉鎖的なんで今度は芝居へと。そうやって段階的にマルチになっていたと最近知りました。寺山修司は映画から入ったから、最終形態ですよね。

その映画の話題で、「高橋源一郎「飛ぶ教室」の聞き逃しで興味深い話題がありました。「ファスト映画」です。稲田豊史 『映画を早送りで観る人たち』の紹介でした。けっこう面白い話題だと思います。

【聴き逃し】高橋源一郎の飛ぶ教室 コンテンツと作品、消費と鑑賞 10月21日(金)午後9:05放送 #radiru https://www2.nhk.or.jp/radio/pg/sharer.cgi?p=6324_01_3816588

「秘密の本棚」の紹介が「ファスト映画」みたいなんですけど。それをわかってやっているのです。ただそれによって、この番組から読書したいと思ったり、『シンジケート』もその一冊でした。

その境界がどこにあるのか?いい本を紹介したいのといい映画を紹介したい気持ちは同じなのに受け手がファスト動画を観たから、それでいいやになってしまう。

ファスト映画は、「ファーストフード」から来た言葉で食事の簡略化ですよね。ただ「ファスト映画」も「秘密の本棚」も、いい映画は何度でも観たくなるから、それでもいいとは思うんですけど、「秘密の本棚」の読書紹介でも、今日の本は読まなくてもいいと思ってしまった。

何故なら自分は映画を早送りで観ないから、部屋ではながら見をしていますけど。ちゃんと映画を観たいなら映画館に行きます。昔の人ですから。ゴダールの亡くなったのが今日(こんにち)の大きな転換期なのだと思いました。もう映画も配信で観る時代ですね。あまりにも多くの映画が観られるので、かえって一本一本の映画を観るのに雑になる。話題性だけの映画を追っていく。

本もそういう傾向がありますね。最近は本も買わなくなったけど勤めていた時は月に2万ぐらい本を買っていました。次から次へTwitterで紹介されるので、読みたいと思って買ってしまう。その積読で、もう死ぬまでの本は買ってしまったかなと思える程です。そんなに読めないと知って、今は新刊本を買わなくなりました。図書館本でいいかなと。たまに古本屋を覗いては安いワゴン本を何冊か買う生活です。

最近の日本で流行るラノベやHow To本は、わかりやすく読みやすいもので、観たくないものや退屈する話を聞きたくないという、そして次から次に映画や新刊が出される。まさに消費社会の成れの果なんだと思います。その共感性だけしか求めない社会がネット社会なのだと。ますますわたしも老いて、置き去りにされていく感じです。それが「うたの日」なんだな、と気が付きました。昨日2日連続「どんまい」を食らって永久に共感できないかもとおもってしまった。

話がそれて、長くなってしまった。一番悪いパターンでした。そういう無駄を省くというのは今の世の中の流れで、そういう社会になっている。そういう人生ばかりでは詰まらんと思うが、そういう流れに文句を言ってもしょうもない。自分もそういうことをしているから。ただ寄り道も楽しいと教えてくれたのが文学であり、芸術であるから、それは学校で教えられるものでもないと思う。

まとめると『失われた時を求めて』のファスト小説を読む意味があるのか?っていうことです。読んだ者にしかわからない世界があるということ。それが語り手が経験した善悪だけで測れない世界観なんです。ネット社会はなんでも善悪で判断してしまう。オン・オフの世界ですよね。

昨日はもう一本映画を観たのでした。一日二本映画を観るとどっちかが印象が薄まって詰まらない映画になってしまう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?