見出し画像

波紋から共鳴へ

『ふたつの波紋』伊藤 比呂美/町田 康【著】

現代詩が目指すべきは自己からの脱却か、意味からの飛躍か。山頭火・中也・太宰のパブリック・イメージの裏にある魅力とは。そして、二人を惹きつけてやまない古典の世界―。ジャンルを横断して文学の最前線で活躍し続けてきた二人の文学対談。
目次
第1章 詩人の条件(現代詩は、言葉を繋げたらいけないんですか?‐町田;自分がこだわってきたのは、「語りもの」という視点です‐伊藤 ほか)
第2章 「歩き続ける男」の正体―種田山頭火(「読んでも読んでも山頭火」なんです‐伊藤;彼はベンツの乗り心地が忘れられないヤツですよ‐町田 ほか)
第3章 「全力の俺」の魅力―中原中也と太宰治(言葉は植物のように、私たちのまわりに繁茂する‐伊藤;こんなに必死になるなんて、中也も人間やなって‐町田 ほか)
第4章 古典翻訳と創作のはざまで(翻訳というのは結局、何をやることなんでしょう‐町田;とにかく一番えげつなくて、私が書く気になるやつを‐伊藤 ほか)

考えてみれば伊藤比呂美は女性性を自我の確立として全面的に「わたし」を出してきた詩人であり、町田康はロック歌手としてカッコよく見られたいという観客(他者)を必要としていたのである。その文学観の違いかな。町田康が演劇的というのは寺山修司とかに重なるが、それはどう見せる(自己プロデュース)かというパフォーマンスの延長が文学であり、自ずと出自を問う(自分探しか?)伊藤比呂美の詩とは違うのであろう。だから伊藤比呂美は仏教のような方向に惹かれるし、町田康は戯作という物語なのだと思う。町田は憧れ(ヒーロー)の人物像を創作するのが小説であるとする。

山頭火については、自由律よりも行乞記が面白いという。そこに山頭火の至って駄目な人が語られるからだろうか?そこから自由律というとけっこうパフォーマンスしているのかなと思う。山頭火はそのへんが一応俳人というスタイルを持った作家なのだろう。尾崎放哉はそれが剥き出しになるので、むしろ私は放哉の方が好きだが。町田康が山頭火を選ぶのはまだ芸術家として見せようとするものがあるからだろうか、とか考えてしまう。放哉はそこがぐだぐだ人間なので、むしろ伊藤比呂美は放哉の方が好きな感じがする。

それは伊藤比呂美の言葉に対してはだいたいわかるような気がするのだ。ちょうど分岐点にいるのかな。町田康になると「わたし」の中心性なんてなく役割として、多面体の演じる私があるという感じか。ドゥルーズ的ではある。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?