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また時間の無駄なことをやっている存在。

「NHK 100分 de 名著 ハイデガー『存在と時間』」戸谷洋志

「存在」の問い自体を刷新した20世紀最大の哲学書。未来に残したその倫理的課題とは。

古代ギリシャ以来、哲学史上最も重要なテーマのひとつとされてきた「存在」。その問い方自体を刷新し、20世紀以降の哲学に決定的な影響を及ぼしたのが『存在と時間』である。
未完に終わったうえ難解なことでも有名なこの書を、専門用語は最小限に、人間一人ひとりの生き方という視点から解読していく。世間の空気に流されず、自らの良心と向き合って生きる決意をもつことで本来的な自分として生きることを提唱したハイデガー。しかしナチスを擁護したことで、後世の哲学者たちに新たな倫理学的課題を残すことになる。なかでもハイデガーの教え子だったハンナ・アーレントとハンス・ヨナスは、ハイデガーを批判的に読み、その思想を乗り越えようとした。彼らの思索も参照しつつ、排外主義や差別がはびこる現代社会に生きるわたしたちが「他者への責任」を引き受け、他者と共に生きるとはどういうことかを考える。

第1回「存在」とは何か


「存在とは何か」。古代ギリシャ以来続く根源的な問題を問うためにハイデガーは「存在と時間」を執筆した。彼は「存在とは何か」を明らかにするためには、まずそうした「存在の意味」を問わずにはいられない人間に着目する必要があると考えた。世界の中に存在し、自分以外の存在者と関係をもち、自分自身の存在の仕方を自ら決めていかざるをえない存在者が人間であるという意味を込めて、人間存在を「現存在」と呼ぶことにしたハイデガーは、この「現存在」の在り方を徹底的に分析することを始める。第一回は、「存在と時間」が執筆された背景やハイデガーの人となりを紹介しながら、「存在とは何か」を問う意味とは何か、そして、「存在の意味」を問わずにはいられない人間とは何かについて深く考える。

ハイデガー『存在と時間』は昔本を買ったけど読めなかった。それ以来哲学が嫌いになったのかもしれない。言葉の定義とか面倒。結局、言葉が言葉を産み(拡大させ)、絶えず後ろ後ろに後退していく感じ。そして「存在」なんだ。お前は、そこにいるでいいと思う。ハイデガーはいないけど。だから、問題なのか?

言葉の意味と実際のものは一致しない。ものは時間と共に変化を伴うから、いつ(時間)のものなのか?そこが問題。だから絶えず過去形になるという話だっけ。そこよりも問いの仕方から問い直すという。そういうのが苦手だからパス。そういうのを問い続けると袋小路に迷う。あえて迷うことをしているとしか思えないのだ。

ちょっと罠に引っかかったな。人間はどのように自分を理解しているのか?人間のあり方には二通りある。「本来性」と「非本来性」。「本来性」は自分自身が思い描く自分の姿。「非本来性」は他者からみた自分自身の姿。私は無職の定年おじさんにしか見えないらしい。本当は違うのに。世界の支配者だ、と言ってみる。これは妄想と言われる。ただ自分の観念にとどまる限りそういうことだと思う。世界内存在。それじゃ、いけないとハイデガーは言っているかもしれない。

世界内存在とか言う。難しい。世界は外だと思ってしまうから。世界内存在なら支配者でいいんでは?自分が死んだら世界は消えるのだから。世界内存在は夢の世界だよな。現実は世界外だろう。なんとか内側と考えることによって現実社会(世界)に耐えている。そんなところか。

第2回「"不安"からの逃避」「世人」とは?「世間」とのこと。夏目漱石のようだ。世間と個人の葛藤。ただ漱石には「時間」という概念は出て来ないか?「則天去私」。結論はハイデガーと似ていると思ってしまうのは国家主義に傾いていくからか?

ハイデガーは「世人」からの批判から入っていった。そこに不安がある。神経症的な。これを漱石はクリア出来なかった。『こころ』の問題だ。だから次世代に任せた。それが芥川龍之介だったという読み。でも自滅してしまう。そこで太宰の道化が出てくる。「架空のオペラ」。ランボーだったか?

ハイデガーに戻って、それは非本来の生き方だという。逆なんだよな。本来的に生きているのは現実で、架空に生きるのが非本来だからフィクションを必要とする。宗教と言ってもいいかもしれない。退廃している。ハイデガーの頽落は「世人」として生きること。逆なんだ。言葉を本来の世界だと思うからか?キリスト教的なんだな。

第2回「"不安"からの逃避」

ハイデガーによれば、どんな人間であっても、その人生はさまざまな可能性に開かれている。しかし、そのことは人間に対して「不安」をもたらしもする。人間は、この「不安」から逃れるために「世間」に従属しようとする。その中に安住していれば、自分自身の根拠のなさから目を背けることができるできるからだ。ハイデガーはこのような生き方を「非本来的」であると批判し、むしろその「不安」をきっかけにして「本来的な生き方」に覚醒できるのだと説く。第二回は、最重要概念ともいえる「不安」の意味を深掘りし、私たちはなぜ「不安」に陥るのか、そして、なぜ「不安」から目を背けようとするのかを明らかにする。

ハイデガーは「世人」の批判から入っていく。そこに不安がある。神経症的な。これを漱石はクリア出来なかった。『こころ』の問題だった。だから次世代に任せた。それが芥川龍之介だ。でも芥川も自滅してしまう。そこで太宰の道化が出てくる。文学はリレーである(バトンの受け渡し、大江健三郎)。それは、架空のオペラ。ランボーだったか?中上健次でもあった。文学で考えると混乱してしまう。物語性ということ。

ハイデガーに戻って、それは非本来の生き方だという。逆なんだよな。本来的に生きているのが現実で、架空に生きるのが非本来だから、フィクションを必要とする。宗教と言ってもいいかもしれない。退廃している。ハイデガーの頽落は「世人」として生きること。逆なんだ。言葉を本来の世界だと思うからか?カントの「先験的」ということ。神の問題と言ってもいい。

第3回「「本来性」を取り戻す」

「世間」において人間は誰でもない誰かとして生きている。すなわち、それは他者と交換可能であることを意味する。しかし、「死」だけは交換可能ではない。私は、誰かの代わりに死ぬことはできないからだ。「死」は、それぞれがかけがえのない個人であることを思い知らせる。このように自分の死の可能性を引き受けながら生きることをハイデガーは「死への先駆」と呼び、非本来的な生き方から、本来的な生き方へ向かう大きなきっかけであると説く。その結果、人間は一回限りの人生をどう生きるのかを選び取る決意に立てるというのだ。第三回は、「死への先駆」「決意性」といった難解な概念の意味を解きほぐし、人間が自分らしさを取り戻す生き方をするには何が必要なのかを考える。

ハイデガーは「死」は誰とも交換できないとする。「誰も他人から、そのひとが死ぬことを引き受けてやることはできない」。明治の時代精神として漱石は乃木大将の殉死を引き受けようとしてしまった。そこは間違いなんだ。

だから芥川も時代精神を引き受ける必要はなかった。でも文学者は引き受ける素養を持ってしまうのだ。精神のバトンとか大江健三郎も言ってしまう。他者の死を引き受けてしまっては駄目なんだ。でも「死の可能性」とか言うのか。「メメント・モリ」。生きることが「先駆」という。言葉は死の後駆か?

また「良心の呼び声」とか出てくるからよくわからなくなる。キリスト教的から逃れられないハイデガーの限界。神ということかも。もう我は無神論だから「良心の呼び声」が聞こえない。そういえば「聞く」というのは隷属的なあり方だとどっかで読んだ。「見る」は対等的なあり方。幻視は、神の声を聞くのではない。だから悪魔と呼ばれる。

「時間」というものが他者との関係で関わってくると思うのだ。木村敏『時間と自己』。死は時間の停止なのか?他者の死は「時間」を停止してしまうことがある。夏目漱石『こころ』の先生。ここはハイデガーじゃないかも。

死を引き受けるということは「メメント・モリ」ということか?突然死を予想して生きろ!ちょっと違うか。不思議なのは、死にたいと思っていると生きてしまうことだった。死んだらそれでジ・エンドだから思考は出来ない。でもよく死線を彷徨う。

死線を彷徨うということは、ある人とない人では違うのだろうか?死の可能性は、他者との関係の喪失とハイデガーも言っている。死を追い越すことが出来ない「先駆」とは?カントの「先験的」?メメント・モリということだろうか?ただ次に「良心」が出てくるんだよな。良心が構造的に洗脳されたものだったら?誰のための「良心」かで態度が迷う。世界か我か。カフカだな。

君と世界の戦いでは、世界に支援せよ。

世間の動きに従うことになるのではないのか?ハイデガーはキリスト教の原罪論だという。「だからお前はナチスなんだよ」と言いたくなってしまう。言葉の綾だ。何もしないことのバートルビー的生き方。それが自然じゃないのか?良心の呼び声は、得てきた知識。進化論的一神教に繋がる。他者の排除の構造。優生思想。

第4回 「存在と時間」を超えて

1933年、ハイデガーはフライブルグ大学の学長に就任。その就任演説でナチスドイツへの支持を表明する。なぜ「存在と時間」で人間の本来性を追求したハイデガーがナチスに加担してしまったのか? 彼に影響を受けながらも後に決別した政治哲学者のアーレントは「孤独な決断」を称揚したハイデガーには「公共性」という概念が欠落していたと指摘し、哲学者のバンス・ヨナスは、「何に対して責任を取るのか」という視点が欠けていたと考える。第四回は、ナチスに加担してしまったハイデガーには何が足りなかったかを考究し、次世代の哲学者たちが考え抜いた「存在と時間」のもつ限界を乗り越える方法を模索する。

ハイデガーのナチス問題。これは避けられることができない問題なのである。何故なら、それがアウシュヴィッツのジェノサイドを生み出してしまったから。ハイデガーの中にあった過ちを、その弟子であるハンナ・アーレントとハンス・ヨハンスから読む。

その前に考えてみよう。ハイデガーのナチス加担は、フライブルク大学総長就任演説にあるという。そのときの言葉「ナチスこそが歴史的運命」と謳い上げた。

「歴史」は勝者によって語り継がれていきます。日本は広告歴史から、アメリカの民主主義歴史観へと変更させられました。それを「自虐歴史観」と呼ぶ人がいるのは事実です。それは、歴史が勝者の歴史ならば敗者は自虐を語るしかないからです。それをひっくり返すのは妄想と言われる。

ハイデガーの言葉「ナチスこそが歴史的運命」は、ナチスの勝者としての歴史を前提に語っている。敗者となる予想はしないでしょう。ここで敗者になることを予測出来たらナチスに加担するわけがない。

そして学生に「国の命運を引き受ける」ということを言っている。

第一の務めは、民族共同体の献身である。この民族共同体は民族のあらゆる階層や構成員の辛苦・努力・能力をともにささえ、とにも行う義務を課すものである。この務めは、今後、勤労奉仕によって、確固としてドイツの学生の現存に根づくものになろう。(ハイデガー他『30年代の危機と哲学』から、大学総長就任演説より)

「民族共同体」とは幻想であるというは最近の説ですね。民族が確定できない。アーリア人とユダヤ人の境界も曖昧で、ナチスの中にもユダヤ人の血が混じっている者もけっこういたという話です。日本人と言ったとき、それは単一民族の神話が語られるけど渡来人や先住民(アイヌ人や縄文人)から成り立っているのに神話を必要とした(それが「勝者の歴史」)。それが「共同体」の信仰になっていく。最初は宗教だった。そして国家へと。

つまりハイデガーの言葉には、(ナチスの)民族共同体の献身しかないという。これは、認められるか?ユダヤ人へのジェノサイドもそうした犠牲でしかないのか?ジェノサイドの洗脳が起こるのは、民族共同体の勝者の歴史観を示し敗者はその犠牲でしかないという排除の構造があるからです。

民族について知、献身を用意すべき国家のさだめについて知が、精神的負担の知と合一して、初めて学問の根源的かつ充全な本質を創造するのであり、それを実現することは、われわれがわれわれの精神的=歴史的現存のはじまりの、はるかなる摂理におのれをゆだねる、そのかぎりでわれわれに課せられているのだ。(同前)

その根源性はキリストの原罪思想にあると言われています。根源性とは、なんなんでしょう?ハイデガーが「水晶の夜」に抗議しなかったのは、この根源性にあると思います。つまりユダヤ人は犠牲になっても仕方がないのだ。

ハンナ・アーレントからの反論──「仲間」からの切断

アーレントはハイデガーの間違いとして他者を「世人」として一括りにして、「自己を妨げる者」として孤立していったと見ます。

しかし、人間が「仲間」から引き離され、独りぼっちになってしまうとき、それを好機とばかりに全体主義の脅威が忍び寄ってきます。アーレントは次のように指摘します。


「(略)決意によって受け入れられた根本的な責めをなんとか行為へと移すために、もっぱら自ら自身に没入している自己たちを一つの超─自己へと組織化することでしかない。(J.コーン編『アーレントの政治思想集成1「組織的な罪と普遍的な責任」』)」

今のプーチンを見るようですが、自己中で考えるとろくなことがないということなんでしょう。コミュニケーションによって人間の複雑性を得るということ。

アーレントは、人間がともに世界を築くために他者との語り合い、連帯して行動することを、「活動」という概念で表現しました。この「活動」こそ、全体主義的な支配に対するアーレントの抵抗策に他なりません。

ヨナスからの反論──何を決意するべきか

ヨナスはハイデガーの「良心の呼び声」を、「人間が他者に対してまもるべき『倫理』」であるとする。「良心」と「倫理」ですね。「良心」は個別的なものに左右されるが「倫理」は未来の姿を含む責任で、責任概念として「未来の子どもたち」という、それも特に目の前にいる泣いている赤ん坊への責任として、「本来性」を考えるとする。なかなか難しいです。とくにその日暮らしの独居老人にとっては。

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