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女と男じゃないのが玉に傷

『戦後短篇小説再発見13 男と女』 (講談社文芸文庫)

男女のエロスの深淵から放たれた衝撃の十篇日常から非日常へ、さらには死へと導くエロス、その絶対的な力の前で苦悶する様々な男女を描く。坂口安吾、円地文子、北原武夫、野口冨士男、三枝和子等を収録。

このシリーズはいくつか読んでいて、今は出してないようだがこういうテーマ別の短編アンソロジーは面白い。何よりも知らない作家の短編が読めるのだし、既知の作家も新しい発見があるようだ。

全体的に家父長制時代のセクシャリティーを引きずった作品が多く、今も読めると思う作品が少なかった。坂口安吾『アンゴウ』はそれまでの安吾の違った面が読めて面白かったのだが、その他はいまいちだったような。野口冨士男『なぎの葉考』は短編の内容よりもモデル小説として若き日の中上健次の描写が面白かった。老作家から見ると現代の若者だったのだ。

坂口安吾『アンゴウ』

最初の坂口安吾『アンゴ坂口安吾『アンゴウ』は、坂口安吾の戦後の堕落論的男と女の情事、それも戦争で亡き親友と空襲で盲目になった妻が彼の知らぬ間に逢引きをして、それを彼の大切な書籍に暗号のメモを忍ばせて、そこからはドロドロの愛欲の世界を連想させておいて、純真な子供たちの暗号遊びに展開させる筆さばきが見事である。坂口安吾にこんな純真な短編があったとは?

伊藤整『ある女の死』

女優とそのパトロン(劇作家)との恋愛関係。安部公房と山口果林の関係を連想させたが、谷崎潤一郎『刺青』とからしい。よくわらんけどプラトニックと言っているわりには女と関係して、そのころの作家というのはそんなもんだろうか?と思った次第で。山口果林『安部公房とわたし』の方がよっぽど面白い。

円地文子『耳瓔珞(みみようらく)』

女性の方から下請けの職人に言い寄る。まあパワハラ的なセクシャリティの短編だが、そのまえに子宮癌ですべてを取り去った「空っぽの生殖器」を「死口」というのが凄い(医者が言ったのだが)。男根社会とは逆のパターンのエロティシズム。

北原武夫『魔に憑かれて』

これも女優とパトロンとの話だが、もうこういう話は飽きてくるな。頭で考えるより身体は男に従ってしまうという男根社会のエロ幻想。

永井龍男『冬の日』

人間関係が複雑すぎて関係図がよくわからんかった。解説を読んで、母が結婚していた夫が亡くなったのでその連れ子と関係を持ったという話。違った娘の旦那と関係を持ったのだ。なんでこんな複雑な関係の話を書くのだろう。そういうことは戦時だったらあるかもしれない。

大晦日の畳替えから始まる。古畳が登利という女主人を象徴しているのか。新年に新しい畳に替えることは新しい妻を迎えるということ。それが義理の息子の嫁なのだ。永井龍男は名文家ということらしいけど複雑すぎてようわからん。

昔の耐える女の典型だった。こういう小説は苦手だ。

曽野綾子は嫌いな作家だから、『只見川』はパス。

野口冨士男『なぎの葉考』

和歌山出身の若手作家と紀州めぐりをするのだがかつて遊郭っだった場所は今は消えていた。そのことを回想しながらその遊郭で出会った同郷の女(遊女)についての回想する短編。興味はこの若手作家がどうも中上健次であるらしい。なるほど中上健次『枯木灘』は、かつてあった風景を父である浜村龍造が土地改造していくのである。

野口冨士男は地元の若手作家に案内されながら、かつてあった遊郭に思いを馳せるのだが、今はその遊郭もなく記憶の中にあるだけである。若手作家との世代格差(若手作家は喫茶店でTVゲームばかりしている)と当時の作家(野口冨士男)の貧窮時代。その中で遊郭に売られていた女の思い出と自分が作家になって裕福な時代と。遊女である女のセリフがいい。

「もう来たらあかんよ。ほんまに、来(き)イへんな」

「あんた、前途あるお方やないの」

物語はノスタルジーものなんだが、中上健次の関係を想像して読むと面白い。中上健次はこの旅行を元にして『枯木灘』を書いたのかもしれない。遊郭の女に中上健次の不幸な女の影が見え隠れする。そういえばどこかで野口冨士男のことを書いていたような気がした。

三枝和子『野守』

語り手が妻に先立たれた爺さんだった。能の演目『野守』に出てくる「野守の鏡」を探しに行くのだが、その鏡は水辺でそこに映し出す姿がその人の本当の姿なのだという。

つまりそれまで亡き妻に酷い仕打ちをしていたのではないかという昭和の家父長制オヤジだったわけで、それが奈落の底に落ちるなら本望だという気持ちで出かけたのである。お遍路の代わりのような気持ちで、ただ嫁がいるところにはかえってくる気がないのだから、自殺詣ということかな。

能に重ねて爺の人生を重ね振り返るというような短編。

八木義徳『青い儀式』

老作家に女性からの手紙で元編集者との性的告白。そのセックスが儀式のようで、夫との襲われるような熱情的セックスとは違っていたと。なんかへんな手紙なんで、創作なのか事実なのか困るところだが、私小説ぽい。

言わんとしていることは、作家と編集者の関係で、その編集者は作家を奮い立たせなかったと。編集者の言葉で作品を書くやる気が出たり出なかったりという。編集者はセックスの恋人のような二人三脚ということらしい。

そんな裏事情知ったところで、なんかどうでもいい短編に思えるが。あまり読みたいとも思わない作家。

佐藤洋二郎『五十猛』

タイトルを理解してないと何を書いているのかわからないかもしれない。「五十猛」というのは日本書紀に出てくる五十猛神(イタケルノミコト/イソタケルノミコト)のこと。スサノオウの息子で林業の神。

妻と別れた男の回想。妻は外に働きにゆき、その帰り道男に襲われる。それから関係を続けて、ある日男が死んでしまったという話。

それを神話と読んでいてしまっていいのか?解説では清水良典が神話の終焉としているのだが、男側の都合のいい解釈で成り立っている神話である。日本書紀がそうなんだと思えばそれまでだが。こんな短編読みたいとも思わなかった。

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