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換骨奪胎の塚本邦雄の葛原短歌の世界

『百珠百華―葛原妙子の宇宙』塚本邦雄

塚本邦雄は葛原妙子を「幻視の女王」と名付けたが、それは塚本の前衛短歌に引き付けた読みであって、葛原妙子の幻想短歌はけっして理念的なところから出発したのではないのは、川野里子『新装版 幻想の重量──葛原妙子の戦後短歌』を読めば理解できると思う。葛原妙子の幻想性は戦争体験という女性の身体性を通して、西欧と日本という精神の中で分裂せざる得ない歌であった。

塚原邦雄は短歌をすでに滅びた和歌を希求する観念であり、その短歌観は釋迢空(折口信夫)の概念を引き継ぐものである。その理念は中世の和歌の世界にあり、それが滅びの美学として日本が辿らなければならない西欧の理念との葛藤の中で、例えば個人主義的な理念を言葉の中に見出すものだ。それは言霊というものを信じるものでなく、あくまでも感性が言葉を希求する概念として歌であり、その形が現れる短歌というものはすべて本歌取りであると見なすのである。それは和歌だけではなく西欧的な文化から見出す複合体としての短歌という世界が幻視という場所を希求するというような。

それは葛原妙子の身体的なものの基盤よりは、理念(理性)の歌という短歌の読み解き(解釈)であり、塚本邦雄という眼鏡を通して見た虚構性の葛原妙子の短歌である。その手法は難解な上に(塚本邦雄の解説がまず難解)、葛原妙子の短歌の象徴性(本歌というものを)を探っていく作業だから、さらに難解の絵解きになるのだが、その絵解きがある部分明晰に分析されたような気持ちにもなることがある。

葛原妙子の日本的なもの、それは斎藤茂吉の自然という思考を模しているように思えるが、葛原妙子の中に強烈な西欧思考もあったのだと思える。それがキリスト教文化であり、その葛藤が女性としての受容と産出という身体的な経験があったのだが、塚原邦雄はただ言葉からのみから葛原の中にあった概念を引っ張り出そうとするのだ。それは斎藤茂吉の短歌を前衛短歌運動の中へ換骨奪胎する姿と重なるのである。


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