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ドストエフスキーを読んだ猫なら飼っていた

『ジェイムス・ジョイスを読んだ猫』高橋源一郎 (講談社文庫)

感性豊かな人気作家の読書日記とエッセイ。文学とは、楽しみの一つの形式である、という警句そのまま、表現・言葉の知的遊びの世界を好む著者から、本を読む人々への、ユーモアと優しさにみちた呼びかけ――徹底的に、断固として、非妥協的に本を読む。文学が芸術であるように、読書もまた創造的芸術である、と考える著者の、読書への愛着。作品の中から美しさを引き出す、感受性と能力を持つ読み手となるための、数々の工夫。現代人の密かな思いをとらえて選ばれた本の、楽しい読書法と、身辺を語るエッセイ。

私が日記で影響を受けているのは高橋源一郎氏なのだが、それでもこの作品を読んでいると読書量が凄いと思うのだった。まあ全てを読んでいるわけではなく気になるところだけらしいのだが、それでもそれを探し出すにはテクニックが必要だろう。目次で大体検討を付けるとか。

本書は、1985年(「荻窪タイムス」1985.1.20の記事あり)から1987年に単行本が出るまでのニ年間に書かれたエッセイ(雑文)だと思うが、その話題性は広くまた漫画から広告コピーまでと(これだと幅狭い感じだが、現代思想から現代詩、現代文学は当たり前に)今読むとついていけない話題もあるがけっこうアナーキーで過激なのである。今の高橋源一郎は爺さん作家になってしまったと思うぐらいに。その中で今でも読んで面白かったベスト3の記事。

俳人中曽根康弘氏の非芸術的鑑賞法

流石に昔の総理となる人は学が違うんだな。ガースのインスタ・パンケーキとか安倍ちゃんの嘘つきTwitterとかではなく、正々堂々と句集を出していたのだ。

言うべしと ボタン押す指汗ばめり 

これをクイズ番組の出演者が解答を思いついて詠んだ句とするのは素人もいいところだ。なんせ中曽根康弘総理が現役時代に作ったのだ。正解は、サミットの席上でレーガンにこのボタンが核ボタンだったらどうすると冗談を言われ、発言しなければならない時の俳句であるそうだ。季語は「ボタン」季節は世界の終末。そこまで解釈できて作家である。俳句は詠みよりも読みのセンスが問われるのである。

おくれ毛の ひとすじかなし秋の風

中曽根総理の頭髪を詠んだ句ではないのである。ガンジー首相の葬儀に列席した時に運ばれていくガンジー氏のおくれ毛を見て詠んだ句なのだそうだ。そして、さらに続く。

ゆく秋や のぞみとめぐみ地に遺す

ガンジー首相の隠し子ではない。日本に寄贈した象の姉妹なのだ。なお動物園関係者は、首相が勝手に約束して貰ってくる象は飼育が大変なので困っているという話。象には風流は通じない?

憂憤の鐘打ち鳴らし原爆忌

長崎原爆忌での一句。深い悲しみと慟哭い彩られた激しい反戦句。日頃の交戦ポーズと矛盾すると言ってはいけない。政治家は仮の姿であり真実は芸術家としての中曽根康弘の姿なのである。サンケイ新聞に載せたいぐらいだよ。

女子学生 スカートまぶしい浜の風
コンパニオン 脚長くして夏の草

同じ首相の句だとは思えないが沖縄海洋博での句だという。ただのオヤジ俳句だった?

ポスト・モダンの傾向と対策

この本は、たまたま古本屋の100円ワゴンから救い出した本なのだが、気に止めた理由があって、noteの記事に福田和也の『作家の値うち』で高橋源一郎の評価が著しく下げられていたからなのだ。

『さようなら、ギャングたち』……91点。「文句のつけどころのない現代文学の傑作」
『優雅で感傷的な日本野球』……60点。「パスティッシュ、パロディーが巧みであればあるほど、作品自体は退屈なものとなってしまっている」
『ペンギン村に陽は落ちて』……33点。「『Dr.スランプ』を題材としたパロディー、パスティッシュ。ただそれだけの代物」
『ゴーストバスターズ 冒険小説』……21点。「「恥知らず」の一言」    (福田和也の『作家の値うち』より)

『ゴーストバスターズ 冒険小説』は芭蕉の『おくのほそ道』を当時流行っていた映画『ゴーストバスターズ』になぞらえたものである。今読むと確かに映画としては古すぎて何を意味していたかは理解が遠くなっているだろう。しかし、それを芭蕉の『おくのほそ道』のパロディ的作品として読めば恥知らずということがあろうか?何よりも今も文庫本で発売されて読まれているのである。ちなみに福田和也の『作家の値うち』は絶版である。まあ、絶版だから良書でもないことはないだろうが、作家の値打ちとしては高橋源一郎に歩があるのではないか?

そして、86~87年頃に書かれたこの文章である。批評の年と言われたこの頃に出ていたのが、江藤淳『自由と禁忌』、吉本隆明『マス・イメージ論』、蓮實重彦『物語批評序説』、柄谷行人『批評とポスト・モダン』。少なくともそれらの批評本は読んで、その上で「ポスト・モダンの傾向と対策」を書いているのである。

福田克也の高橋源一郎評に「自己模倣」の文学で金太郎飴のようにどこを切っても「自己模倣」にしか過ぎないとあるのだが、それを高橋源一郎の前にやったのは太宰治である。そして、高橋源一郎は太宰を作家として尊敬している。人間性はここでは問わない。何よりも作品論で言いたいからだ。

そして、最近発表した『ぼくらの戦争なんだぜ』は、相変わらず支持を得ている。これだけ長い期間に支持される作家は、村上春樹以外にいるだろうか?

そして芭蕉をモダニズムの作家としてポスト・モダンさせた『ゴーストバスターズ 冒険小説』を恥知らずだと言い切れるのか?俳句のセンスは、俳人中曽根康弘を発見した作家なのである。

60年代のおもちゃ箱

と言っても高橋源一郎のアメリカ文学を追いかけることはなかった。それは、やはり60年代的なのか?いや、その前の50年代のアメリカ作家を追いかけることはなかった。どっちかというとロシア文学やフランス文学好みだったから。ある程度の現代文学好きになったのはサンリオ文庫のお陰なのだが、それでもフィッツジェラルドとかブロディーガンとか読むのは最近になってからだ。

ブロディーガンは藤本和子が翻訳しているのを知ったから読みたくなったのである。

そして何よりもブロディーガンが拳銃自殺したのかとこの本で知ったのだ(「アメリカの夢の終わり」)。それによると谷川俊太郎はブロディーガンと親友で直に訃報を聞いたのだという。60年代(シックスティーズ)の終わり。私に取って60年代(シックスティーズ)と云えばジャズの終わりでしかなかった。文学は、アメリカ文学はまだディックとヴォネガットがいた。

それと入れ替わりにカズオ・イシグロの初期作品を紹介しているのは先見の目があると思った。このへんのエッセイは植草甚一のスクラップ・ブックに似ているのである。今インターネットで同時代的に読める作家も多いが、すぐに読んで紹介出来る作家がいるだろうか?





 



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