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「ヒロインズ」が自ら書けなかったのは狂気というレッテルのせいだった。

『ヒロインズ』ザンブレノ,ケイト/【訳】西山 敦子

夫や愛人のかげで声を消されながらも書いた女性たちの生きざまと、作者の私的な語りを織り合わせたもうひとつの文学史。彼女たちもこの道を、めちゃくちゃになりながら進んでいった ?-
すべてのトキシック・ガールのための反逆のマニフェスト  

2009年、ケイト・ザンブレノは数年来取り憑かれてきたモダニズム作家の「妻や愛人たち」についてのブログを始めた。ときに偉大なる男性文学者のミューズになり協力者になるいっぽうで、自らの言葉を奪われ、名前を消されてしまった彼女たち。精神の病と診断されて苦悩の中で生涯を終え、あるいは自分も書きたいと思いながら叶わなかった女性たち。大学で働く夫の「妻」としてオハイオ州のアクロンという小さな町に暮らす無名な作家である自分の孤独や無力感、怒りを重ねつつ、ザンブレノは彼女たちをはじめとする文学史上の書き手とヒロインたちを〈私の見えないコミュニティ〉として描き出す。そうするうち、やがて新たに生成していくもうひとつのコミュニティが、そこに連なる。

文学とは何か、狂気とは? それを決めるのは誰か?

家父長の言葉が支配する枠組みの中で声を抑えられた女性たちに寄り添い、彼女たちの物語を響かせようとする試み。あらゆる引用とパーソナルな記録の断片を無限に重ね、織り合わせることで現れる〈私たち〉の姿とは。

本書で主に取り上げられるヒロインと作品たち

ゼルダ・フィッツジェラルド/ヴィヴィアン・エリオット/ジェイン・ボウルズ/ヴァージニア・ウルフ/エンマ・ボヴァリー(『ボヴァリー夫人』)/アナイス・ニン/ジューン・ミラー/「私」(『黄色い壁紙』シャーロット・パーキンス・ギルマン)エドナ・ポンテリエ(『目覚め』ケイト・ショパン)/ジーン・リース/デューナ・バーンズ/ルイーズ・コレ/コレット・ペニョ(ロール)/ルチア・ジョイス/フランシス・ファーマー/ウニカ・チュルン/アンナ・カヴァン/エリザベス・ハードウィック/メアリー・マッカーシー/シルヴィア・プラス など など … …

出版社情報

 文学の世界で男性作家のミューズとして崇めながら実は彼女たちの表現は男たちに封印されてしまい、そして彼女たちはそれによって狂気になる、その様を作品化されるという。
 例えばモダニズム詩人のエリオットやフィッツジェラルドやポール・ボウルズらの作家の妻。
 日本だと『智恵子抄』の高村光太郎の妻とか。もっとも有名になったのはイザベル・アジャーニの映画で有名になったカミーユ・クローデルか。彫刻家ロダンの弟子だったが愛人みたいになって狂気のうちに人生を閉じる。
 島尾敏雄『死の棘』も、妻の島尾ミホ側から書かれた梯久美子『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ―』もそうのような本だった。

 ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』の「シェイクスピアの妹」。シェイクスピアの妹は詩人であったかもしれないが一行も詩を残さずに世に出るとなく亡くなったという仮説。この言葉は才能がある女性でも男性のように表舞台に出ること無く無名のまま祀りされれる、ということだ。

 その例証として、ゼルダ・フィッツジェラルド(F・スコット・フィッツジェラルドの妻)やヴィヴィアン・エリオット(T.S.エリオットの妻)が上げられている。

 この本が晦渋でスラスラ読めないのは、著者がヒロイン達に巫女的に憑依した書き方である上に、さらに自分の体験を織り込むので、かなり錯綜した語りになっている。それは「意識の流れ」という感じで、フィッツジェラルドの妻のゼルダのことが書かれていたと思ったらポール・ボウルズの妻になっていたり、ヘンリー・ミラーの愛人になっていたりする。つまり文学者(芸術家)のミューズとされた妻たちは作品(もの)扱いでしかなく、彼女らが自ら表現することを禁じられたのだと。その思いがやがて狂気のミューズとして彼らの作品を高める。

 ザンブレノ自身、「狂気の女」として診断されたという。ある過剰さが「狂気」とされてしまう、そうしたレッテルを貼られてしまう女性たちが多いのではないか。そして、それをフロイトはヒステリーと名付けた。名前を与えることである概念がそこにまとめられ閉じ込められることはある。何故ならば、男性作家の狂気は称賛されたりしているからだ。

 ザンブレノ自身狂気について語りながら、これだけの本を実際に書いている事実、そしてそれが読まれている事実、読者はそこにやはりある事実が隠されていると思うのではないか?ヒーローの陰で一人のヒロインは、閉じ込められ狂気とされてしまう。その物語に惹きつけられているのは事実だ。それはヒーローのせいなのか?ヒロインのせいなのか?

悲劇のヒロインという言い方を好んでしまう。なるほど彼女たちは自分自身を抑えられなく無謀さの中で美しいものとされる。そう望んでいたのは誰なのだろうか?恋愛小説で馬鹿な女ばかり描かれ理性的な男はヒーローとして描かれるのは何故か?その破綻がフィッツジェラルドの「崩壊」だとしたら、むしろそうした「崩壊」に何かを見出すから彼の小説が称賛されているのだろう。そして、その陰でゼルダは駄目な女の烙印を押されてしまう。

 ジン・リースの作品は、『あいつらにはジャズって呼ばせておけ』や『サルガッソーの広い海』は狂った女の書いた作品だったのか?そういえば池澤夏樹=個人編集 世界文学全集で『サルガッソーの広い海』はヴァージニア・ウルフ『灯台へ』と一緒に収められていた。ヴァージニア・ウルフが狂気の女とされるのは理解しがたいことではないか?例えば自分は『波』が手強すぎて読めなかったが、そこのT.S.エリオットのモデルが出てくるという。そういう男の傲慢さが出ていたのかもしれない。

 フィッツジェラルド『夜はやさし』(角川文庫、谷口陸男翻訳)を読んでいるが第一部のゼルダがモデルとされたニコルとの手紙のやり取りはフィッツジェラルド自身によってカットされてしまったという。そこにゼルダの手紙の文章があるからだろうか?フィッツジェラルドはゼルダの手紙を剽窃したのかもしれない。
 第二部はハリウッド女優との出会いから描くのだがその客観描写は読みにくいというかプルーストの影響を感じさせる。プルーストで我慢して読むことを出来たのでどうにか読むことが出来るというように。村上春樹ヴァージョンは、その第一部をカットしたけどゼルダの書簡が掲載されているというなんともややこしい『夜はやさし』でそれがいいと言う人もいる。

 ゼルダ・フィッツジェラルドの作品が現在では出版され、一部の人の関心を呼んでいるのは、彼女の作品を必要とする人がいるからだろう。このザンブレノの本もそんな彼女の本を必要とする者に向けられて書かれたのだ。過剰に狂気を持って。

最後はブログについて書いている文章が面白かった。この本自体もブログを元にして書いていたのだ。わかるのは、ベンヤミンのパッサージュ論のように、いろんなものを集めては貼り付けたり自分の感想を述べたり、整理しないで並べてしまうノートブック的ブログ。彼女がやっているのはTublrなのだが気になってログインしてみた。英語で面倒くさそうなので、まだ自分はnoteの方がいいかなと思うがそういうことだった。書きたいことをどんどん書いていく。


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