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終わりのない読書

『プルーストの浜辺―『失われた時を求めて』再読』海野弘

4種類の邦訳が刊行され、日本でも根強く読み継がれている、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』。秀逸な作家論『プルーストの部屋』(中央公論社)を発表した著者が、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の舞台となった海にフォーカスをあて、印象派の画家らがこぞって描きはじめた海水浴や浜辺の文化を考察する。

★テクストに寄り添いつつプルーストの創作部屋の内的世界へと迫った前著とは反対に、プルーストの世界を外へと解き放つ思索を展開。

★著者が長年かけて収集した貴重な絵葉書や写真を掲載。テキストのみではわからないプルースト世界のヴィジュアルも理解できる。
また見つかったぞ。
何が? ――永遠が。
それは太陽と共に
去って行った海。 
(西条八十訳「永遠」アルチュール・ランボー)

『失われた時を求めて』に出てきたノルマンディーの保養地バルベックは、海水浴が医療目的の健康法としてイギリスの保養地として始まり、ノルマンディーに進出してきた歴史があるという(欲望の資本主義?)。

そのモラル(健康法)からの野生の逸脱がフロイトからモーパッサンと経て、プルーストや同時代のモーリス・ルブランのルパンでもノルマンディーの風景が「奇岩城」として出てくるというのはなるほどと納得してしまった。プルーストとルブランの関係も面白い(探偵小説?)

風景の発見という柄谷行人『日本近代文学の起源』でそれまでの風景が景勝地ではなく、作家の内面の発露であるという。それは絵画の歴史でも印象派がそれまでの観光地の景勝地から内面を発見していく。

最初は絵葉書的な観光地(避暑地)としての海辺が、例えばボードレールなどの象徴派詩人を経て海が内面を示すようになる。その方法をプルーストは美術評論家であるラスキンから学んだという。

具体例を上げれば祖母の野生的な性格は、パリの貴族の花形であるゲルマント公爵夫人とは対極を示すものとして、地方のバルベックは野生の存在感を示す。その祖母が亡くなり、もう一つの野生を見出すのが「花咲く乙女たちのかげに」で登場するアルベルチーヌらの「花咲く乙女たち」なのだ。

祖母がフランス語で「大いなる海」の意であり(日本語でも海に母が含まれる)、人工的なパリのセンスとは対置する野生の関係である。それは「聖書」の「ソドムとゴモラ」として、逸脱していく場所としてのバルベック。

アルベルチーヌが白鳥伝説(日本の羽衣伝説)であるというのはなるほどと思う。つまり野生のアルベルチーヌが羽を脱ぎ去って化身した姿が「囚われの女」で、パリでの暮らしの窮屈さから、やがて彼女は「逃げ去る女」となって飛び去っていく。

それはジルベルトやスワン夫人の言葉で暗示されていたという(ふしだらな娘)。ジルベルトが洗練さを身に着けてサン=ルーと結婚するのは、そういうわけだった。

この本を読むと、もう一度「花咲く乙女たちのかげに」を読み返したくなる。それで吉川一義訳の岩波文庫を図書館で借りてきてしまった。随分丁寧に地図やら登場人物やらが出ていて、最初に読むならこっちだよなと思えたり。脚注もそのページ内にあるので、中には写真つきでこれはいいなと思いました。ただ残念なことにこの巻ではアルベルチーヌが出てこない。出てくるのは次の巻だった。

ちくま文庫も残り10巻だけになったのだが、読み終えるのが残念なような気持ちになってくるのだ。それで間に次々と『失われた時を求めて』の関連本を読み漁ってしまう。そうして、いつまでも読み続いていく稀有な読書体験。


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