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中島敦を読む

中島敦を読む。

中島 敦(なかじま あつし、1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日)は、日本の小説家。代表作は『山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』など。

今日(12月4日)は中島敦の命日ということで、中島敦を集中的に読みたいと思います。過去ログも含めて楽しんで下さい。

『狼疾記』

中島敦の短編小説。題名は孟子の「養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也。」という言葉に由来している。「かめれおん日記」と共に「過去帳」と総称される。長編の未完作品『北方行』との類似点が多く、それを再構成した作品と見られている。(ウィキペディア)

身辺雑記的なエッセイ風短編。女学校(横浜高等女学校)の教師時代。幾分神経症的な存在論(「マックスウェルの悪魔」のようなエントロピー的崩壊)を語る。同僚のアホ面教師の回りくどい存在論(螺旋の時間論というような)が書物で得るのと同じだったと衝撃を受ける。

博識なうぬぼれ(漢詩に対する知識を老教授から褒められたこと)や女生徒に対するもやもやしたものを存在論と同等に語るからややこしい。狼男になれぬ教師の神経衰弱という感じ。

アホ面教師が妻のことを記した『名婦伝』なる本を出していた。詐欺師まがいの物だと断定するが、そこまで妻を愛せる男と語り手は対照的な立ち位置にいるようだ。聖人君子たる教師も一皮剥がせば欲望を感じないこともないのを卑下する。どこまでも理想論が高いように思える。そうした語り手の反対側にいるのがこのアホ面教師のMなのだ。彼と酒を飲みながら嫌な気持ちと恐れ。世間という感じなのか。

カフフ『巣穴』に言及するところがある。穴を掘る小動物が獲物を取らねばならぬと同時に敵を恐れ巣穴を掘る生活を続けている。中島敦に取ってカフカの「巣穴」のように存在の言葉を掘り続けているように思える。(2021/12/04)

『悟浄出世』

NHK元アナウンサー島津有理子さんが『レ・ミゼラブル』のYou Tube放送で影響を与えた読書で取り上げていた作品。中島敦はハイブリットな芥川龍之介という感じか。

「河童」が「沙悟浄」に成ったような。『西遊記』で三蔵法師に出会う前の哲学的な問いに悩む悟浄を描いていて面白い。ただ円環で閉じてしまった文学となるのかもしれない。結局哲学的問いは言葉の問題でそれに先立つ行動の重要性を描く。だから「出世」。その円環的堂々巡りから救い出したのは三蔵法師との旅ということになるのか。

様々な問いの中で出会う妖怪たちが面白い。結局、問いの文学なんだ。続編の『悟浄歎異』でまた悩むことになる。文学とは言葉を相手にする限り問い始めたら立ち止まらざる得ない。(2020/03/03)

『悟浄歎異 —沙門悟浄の手記—』

『悟浄出世』の続編。最初に悟空が八戒に変身の術を教えるところから始まる。龍になれずに太った蛇に足が生えた奇妙な生物にしか変身できない八戒は楕円(後藤明生、円環哲学よりも楕円文学)妖怪だった。悟空は完璧な円環妖怪なのだが力の過信からお釈迦様の手のひらで回される。三蔵法師はどうだろうか?三蔵法師は悟空の力と対極な弱さの人だがそれを補う知恵の人でもある。悟空と補完し合うマイナスの円環人間なのだろう。それが妖怪たちを繋げているのは一つの輪によってだろうか?沙悟浄が八戒と似たような楕円妖怪なのだ。悟空にも三蔵法師にも成れずに中途半端な妖怪。(2020/03/11)

『セトナ皇子』

エジプト神話にまつわる話だと思うが、神話よりもセトナ皇子の無常観のようなものは、中島敦が取り憑かれている形而上学的な存在論的問いのような。結局それは悪魔のなせる業と思い、そういう書物を神殿に返しにいく。(2021/12/04)

『文字禍』

「コロナ禍」の「禍」はここから来たのかな?文字がウイルスのように禍(わざわい)になる。アッシリア(メソポタミア)を舞台にした寓話。中島敦の短編では一番好きかもしれない。「言霊」とは違う禍を起こすウイルス的な存在。古代の粘土板に書かれた楔形文字は現代のコンピュータのような媒体。それに取り憑かれたものは現実のことがなおざりになり、その感染力は強力だ。我々がネット空間から逃れられないように。文字に書かれたことが歴史として事実であり文字に書かれないことは無きことにされる世界。これはウイルスと同じように厄介だ。(2020/05/10)

『山月記』

こっちの方が『名人伝』よりもまだ好きかな。こっちは詩を極めようとして虎になってしまうのだが、虎が比喩的な狂人だとすれば芸術家は孤立していくがゆえに社会を否定していくと狂人になる。李徴は家族を捨て去らねばならなかったがその哀しみの感情がまだあったということなのだろう。狂人になる手前で書いた詩と虎の咆哮に変わる姿との虚実皮膜の文学。(2020/05/05)

『李陵』

中島敦の物語的作品で今まで読んだ短編は、ロマンを描かなかったが、これはロマンだろうか?二重構造になっている。そういう意味では、メタフィクション的なのだ。「李陵」を描く司馬遷の苦悩=李陵の苦悩みたいな。それは中島敦の苦悩でもあった。

そういう意味ではレシ(小説)なのだ。例えばロマンを描いた漫画『キングダム』は、圧倒的な武将たちの超人的活躍を描いて感動する。同じ『史記』を描いていてもその違いがあるのだ。どちらが司馬遷に近いだろうか?

二つの葛藤の中でもがき苦しむ姿が漢(正義)と匈奴(自然)の争いのように描かれる離れ業をやっているのだ。司馬遷は、中島敦の分身とも読める。言霊ということかな。単なる記述ではなく、言葉に魂を与えること。それが文学ということなんだと思う。もう一人の将軍蘇武との対比で描かれる。蘇武は武帝にただ従う将軍だ。運命を変えようとしない。

李陵はただの敗軍の将ではない。運命に逆らっても自己を通しながら、歴史に破れていく者たち。その存在を呼び覚ます文学。人間そのものの悩みを抱えた強者ではない敗軍の将。(2021/12/04)

『名人伝』


5月5日が中島敦の誕生日ということで昨日の寝しなに読んだ。完璧過ぎる短編。芥川は人間の弱さが出てきて名人一歩手前でめげてしまうのだが、そこを突き抜ける狂気を描く。『地獄変』は突き抜けるが自死していく狂気だが『名人伝』はアホになりながら生きている。「不射の射」とは?目的に弓矢を使わずしても射ることが出来る。

論理を超える飛躍なのだが、その目的をも超越した思考だとすれば、成るがまま。最近の国会答弁のような。安倍首相の答弁を聞いているときに、ふと『名人伝』が浮かんできた。PCR検査をしないでも対処できる。自然に?その前に首相もいらないけど。

むしろジョン・ケージの『4分33秒』なのか?音楽を必要とする楽器がなくても、名人は演奏できる。でもこの場合も名人も必要ないな。やっぱ堂々巡りしてしまう。実際に言葉はないものをあると言ったりできるから詭弁だと思う。むしろそれを楽しむのが小説か。(2020/05/06)

『南島譚』

「幸福』南島は、植民地だったパラオ諸島。それまでの漢文調の厳しさよりは、南の島のファンタジー(神話)に夢心地なものを感じる。しかし、それは中島敦が病気療養中に書かれたことを考えると死の影がちらつく。「幸福」は島で一番の金持ちであり領主である長老とその奴隷の物語。奴隷の男はいかなるときも長老に礼を尽くさねばならず、ある日、漁の時にそれを忘れてフカのいる海に突き落とされる。その時に足の指を食いちぎられるのだった。長老の絶対権力と奴隷の哀れさの落差。

奴隷は、伝染病が流行って病に臥してしまう。しかし、島の祠の悪神(ディオニソスか?)に祈って、夢を見る。そこでは彼は長老になっていて、たらふく食べ奴隷をこき使う。目が覚めると元の奴隷のように長老に仕える。そして、長老がどんどん痩せていき、奴隷の男はどんどん回復して太ってくるので、問うと夢の中で逆転していたという話。とりわけ教訓的なものはなく、のほほんとした南島の話だった。

「夫婦」これもパラオの伝説。パラオの習慣で女房が浮気女と決闘をして、浮気女を痛めるける。連戦連勝の女房がいたのだが、夫は売春宿の美人に惚れてしまう。そして、またもや女房が決闘をするのだが、逆に素っ裸にされて(キャット・ファイトですね)叩き出される。

売春宿の女とは切れたので、女房と本当に結婚の儀式(この島では金がないと立派な式を上げられなかった)をして、夫婦仲を固めようとして、出稼ぎに行く。その間に女房が浮気。

怒った夫は売春宿で、操を守り続けた女と一緒になってめでたし。

キャット・ファイトの描写が面白い。そういうことを描く人でもなかったのに作風の変化を狙ってのでしょうか?それも見世物的な描写で、オリエンタリズムということなのかもしれない。

『雞(にわとり)』パラオの邪神の彫像などを集める占領民である医者が、それを盗み出す男に罪を問うのだが、キリスト教の神の方が強いからそっちに懺悔しておけば怖いことがないという。

そして、医者から高価な時計を盗むような男なのだが、ある時病気になる。村の公営病院より、腕のあるドイツ宣教師の医者に見てもらいたいと思い、私に公営病院の知り合いだから頼んでくれとお願いする。その院長によると老人は不治の病で助かる見込みもないから好きにしろということだった。

老人はやがて死んで、私のもとに雞が死んだ老人からだと届けられる。そして次の日も雞が届けられ、3人目のときにその届けた男に尋ねるとこの村は信用のおけないものばかりだから、三人に頼んで確実に雞が届くようにしたという義理堅さなのだが、盗んだ時計はどうした?と思う。そのへんの善悪の感覚の違うことを言っているのだが、中島敦が憧れていたのはパラオのようないい加減な暮らしだったのかもしれない。『南島譚』の緩さというのは、当時の日本社会とは正反対だったからだろうか。

参考書籍:後藤明生『カフカの迷宮: 悪夢の方法』



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