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大逆事件の中にもいろいろな文学的流れ

『日本文壇史16 大逆事件前後 』伊藤整(講談社文芸文庫)

大逆事件と近代文学の動きを情熱をこめ究明明治43年、荷風は慶応義塾の教授となり「三田文学」創刊。「白樺」第二次「新思潮」創刊。幸徳秋水逮捕。明治の終焉・大正文学の萌芽を社会・文壇と共に捉える

時代としては治安維持法の中で表現の自由を奪われいく形の文学だが、それでも様々な文壇グループが誕生するのもこの時代なのである。大逆事件では、弾圧事件が逆に彼らを奮起させたこともあるのかもしれない。上で取り締まっても下々で脈々と流れていく文学者たちがいる。

ただ政治状況として軍国主義化の流れもあり、それに寄り添っていく文学者も出ていくる。

幸徳秋水は、売文家としての才能が、言葉で人を感化させたり敵対する相手を丸め込んだり、女性を口説いたりしてようだ。だから革命を起こしたいということもフィクションとして語っていたのだが、それが現実化していくとちょっとヤバくなってしまった。

秋水は名文家であった。筆をとって書けば人の気持を揺り動かす文章が自ら成った。彼の評論もそのために力あり、彼の手紙もまた人の同感を引く魅力があった。しかし窮地に追いつめられていたいたこの当時の秋水の気持ちは、相手によって、その都度変化し、彼自身いかに生くべきかの方途を定め得なかった。別れる言う須賀子へも、大阪にいる千代子へも、仇敵視して追いかける荒畑寒村へも、彼はそれぞれ違ったことを違った言葉で訴えていた。(伊藤整『日本文壇史16 大逆事件前後 』)

太宰治みたいな奴で、須賀子は献身的に惚れてしまった。老いて病弱な秋水を爆弾闘争から外して守ろうとしたのだった。須賀子の恋は、黒川創『暗殺者たち』に詳しい。もっとも伊藤整『日本文壇史』によって書かれたところもあるのかもしれない。

この時代の文学者が放蕩な性に対しても奔放なものを書いたのは洋行(フランス)帰りの永井荷風だった。彼はフランスのランボーやボードレールと言ったデカダンス(退廃主義)の文学を身を持って体験し、『ふらんす物語』を出して発禁処分を受けた。

しかしフランス語に堪能なことからフランス文学の研究家として教師の地位を得た。荷風は文学よりも生活が安定する教師の道を選ぼうとした。そして、『すみだ川』が耽美的な学校生活を放棄して芸者と放蕩生活を送る中編小説が絶賛されると、荷風のこの『すみだ川』一作によって文壇の中心に躍り出てきた。美文調の硯友社の文学から国木田独歩の自然主義文学のが押しやった日本の情緒的なものを描き出していた。

なによりも荷風は新聞小説を書くことによって小説家としての地位を確立していく。この時代は新聞が文学の砦と成っていったのだ。そうした流れの大衆性の文学に対して、距離を置いたのが森鴎外であった。

その鴎外に相談して慶應義塾のものたち(上田敏)が早稲田文学(坪内逍遥が創刊し自然主義文学の砦となる)に対して「三田文学」を立ち上げる。そして、鴎外は荷風に依頼するように上田敏に助言した。たちまち荷風がそんなふうに持ち上げられていく。

「三田文学」に刺激されて、若い学習院のものたちが「白樺」を創刊する。ここに有島武郎三兄弟(一番下が里見弴だった)や志賀直哉、武者小路実篤などの、大逆事件や永井荷風の放蕩文学の反動として、お坊ちゃまの複雑に捻れた感情の文学が出てきた。時代としては、トルストイの影響を受けた有島武郎は、白樺派の中心メンバーより年上だったので、彼の影響が見られる。その彼らに大きな影響を与えた内村鑑三は、その頃不敬罪で逮捕されていた。

そしてそんな中で谷崎潤一郎は才能を開花させられず、どこの派閥にも属していなかったが、「パンの会(このパンは食べるパンではなくギリシア神話の妖精)」のパーティで酔払た谷崎潤一郎が尊敬する永井荷風にからんでいくエピソードが面白い(いきなり『すみだ川』を絶賛し、弟子にしてくれと哀願する)。それ以降、谷崎潤一郎と永井荷風の関係が続いていく。

あと正岡子規の「ホトトギス」から夏目漱石が小説家としてデビューしていくのもこの時代。

関連書籍:『日本文壇史5 詩人と革命家たち』伊藤整



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