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一年前の文芸誌ほどセンチメンタルなものはない

『文學界(2021年10月号) 特集 プルーストを読む日々』


【特集 生誕150年 プルーストを読む日々】

〈リレーエッセイ〉「『失われた時を求めて』と日常」
いつか読みたいと思いながら、その長大さに尻込みする人が多い20世紀文学の高峰を、これまで読み通したことがなかった14人が一人一巻ずつリレー形式で読む前代未聞の試み。プルーストを読む経験は作家たちの日常をどのように変えるのか?

藤野可織 町屋良平 マーサ・ナカムラ 藤原無雨 山崎ナオコーラ 大森静佳 水原涼 吉村萬壱 王谷晶 山下澄人 鈴木涼美 小川公代 谷崎由依 古谷田奈月
+各巻の梗概(吉川一義)

図書館で暇を潰していたら、プルースト関連の特集の文芸誌が目に止まったので、借りて読んでみた。現役作家(中堅どころ?)がリレー形式で岩波文庫を読んでいくという特集は、編集者がその巻に合いそうな人を選んだと思えるようにほとんどの作家は、批評的なのではなく作家的な読みで自分の『失われた時を求めて』でした。

それが作家の「失われた時」の話をして、どうすんじゃいとツッコミを入れたくなるものもあれば、けっこう鋭い指摘をしているのもあって面白かった。あと順番として、最初は有利かな。後になるほど過去の出来ごとがわからんと何の話かわからない。

だいたい「ソドムとゴモラ」の同性愛の巻ではほぼそのような作家を当てている。そのことを指摘していた王谷晶は、編集部の依頼メールの舞台裏まで書いていて、面白い。さらに王谷晶のBLオタクたちの集いから『失われた時を求めて』のパーティーの長々とした描写は、「社交オタク」のヒエラルキーなのだとする視点は、この中で最も面白かった。

最初の藤野可織は、有名なマドレーヌの描写があるので、やはり有利かなと思えてしまった。そして、彼女は案の定その描写について書いていたが、マドレーヌよりも「壊れやすいティーカップ」に目を奪われるのだった。ティーカップ?全然気にもしなかったと思って、私はその紅茶が最初と違って菩提樹茶になっているのが興味深かった。

三番目は、やっぱまだ読んでない最終巻のことが気になったのだが、同じ井上究一郎訳(ちくま文庫)で大学院時代に読んでいた谷崎由依は、9巻を三ヶ月で読みながら最終巻はそれと同じ三ヶ月かかったというので、どうするの?と恐怖心を持ってしまったり。ただここまで読むと最後はあっさり終わってしまってほしくないというのは、そういう感じは確かにあって、今一番怖いのが読み終わった後の『失われた時を求めて』レスという読書の病かなと思ったりする。そういう意味では、最後はあっさり読まないで三ヶ月ぐらいかけて読むのもありだ。そこがTVの連続ドラマの可逆的に流れていく時間とプルーストの行間をどんどん膨らませてしまう読書の時間との違いだろうか?

あと初心者にも、翻訳者の吉川一義のわかりやすい概要が載っているので、これが一番便利だったかも(過去の読めて中なかったところがわかった)。

〈批評〉吉川一義「見出された『失われた時を求めて』初稿」

翻訳者の吉川一義は、「見出された『失われた時求めて』初稿」という解説批評は、それまで『失われた時を求めて』を読んだ人でも興味深い記事で、プルーストと母親との関係が作品に与えた影響について。母の死で改変を余儀なくされた、それまでは母の生前に書いていたのだが、母の死の衝撃は改変させるに十分な事件だった。それはプルーストが息子として母の期待に添えない同性愛者で母の期待を裏切ったばかりか、その行為で十分に家族というものを破壊させる行為だったとボードレールの詩まで引用して、語る解説は、ほとんど私の親不孝体験を書かれているのかと思うほど共感してしまった。

ひとりは、祖国によって不幸の試練にかけられ、
もうひとりは、夫から過度の苦痛をしょいこまされ、
もうひとりは、わが子に胸を刺し貫かれて聖母になった

(ボードレール『悪の華』の「小さな老婆たち」より)

そんな読書のテコ入れとして、読んでいたのに、ほとんど私の中で母と語り手の関係性の再認識に変化をもたらすものであった。そしていま現在『失われた時を求めて』はアルベルチーヌとのうんざりする関係から抜け出させるための、母とヴェネチア旅行の「センチメンタル・ジャーニー」の所なのだ。

〈対談〉保坂和志×柿内正午「読めば読むほどわからなくなる」

保坂和志はそういえばだらだらエピソード記憶的な文体の小説を読んだことがあったが(『未明の闘争』だった)、あれは小島信夫の影響だと思っていたのだがプルースト的なのもあったのかと再認識するのだが、また読みたいとは思わない。

そういう保坂和志と師弟関係にあるのかと思える柿内正午は、『プルーストを読む生活』という本の著者でした。こういう対談は本のセールスもあるのだろうと思うのだがプルースト→小島信夫→保坂和志→柿内正午という系譜というか文学のバトンが渡されているのだろうなと思うのだった。『プルーストを読む生活』は再読する機会があったら読んでみたいかもしれない。

【第二特集 坂口恭平とは何者か?】

〈坂口恭平ロングインタビュー〉「土、ドゥルーズ、石牟礼道子」聞き手・九龍ジョー

〈エッセイ〉「彼について私が知っている二、三の事柄」
田尻久子 斎藤環 川内倫子 土井義晴

坂口恭平も物語よりも文体で、本人はその文体さえ消去するのだと発言しているのだが、興味を惹かれ一冊読んだが、このパターンは後は何を読んでも同じだろうと思ってしまったので一冊で留まっている。確かに文章そのものが彼の生き方を体現していることがあるのだが、そういうハードボイルドに耐えられるのは若さが必要で、今よむとヘトヘトに疲れてしまう本だった。

それは彼が関係性を外へ外へと拡張していくからで、ドゥルーズの「器官なき身体」という哲学の実践の場が文学としてある、そう言えば物語よりも書くことへの強烈な意志を感じさせた作家でヘンリー・ミラーがいたなと思い出した。一時期ヘンリー・ミラーにハマったのだが何を読んでもヘンリー・ミラーなんで飽きてしまった。この作家なんかも世界は一冊の書物であるというような、プルーストにもつながる感じなのか?最近の私の読書がすべてプルースト『失われた時を求めて』に接続してしまう読書機械なので、それもドゥルーズの影響かなとも思える。

あとちょっと前の文芸誌は亡くなったはずの西村賢太が連載していたり、今回の安倍元首相暗殺事件で失墜してしまった落合某のイケイケな文章もあったりして、それさえも遠い遠い過ぎ去った時のように思えるのだった。

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