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日本の詩歌は恋せよという行為から始まる

『日本の詩歌――その骨組みと素肌』大岡信 (岩波文庫)

日本の叙景歌は、偽装された恋歌であったのか。和歌の核心にはいかなる自然観が存在していたのか。和歌と漢詩の本質的な相違とは? 勅撰和歌集の編纂を貫く理念とは? 日本詩歌の流れ、特徴のみならず、日本文化のにおいや感触までをも伝える卓抜な日本文化芸術論。コレージュ・ド・フランスにおける、全五回の講義録。(解説=池澤夏樹)
目次
1 菅原道真 詩人にして政治家
2 紀貫之と「勅撰和歌集」の本質
3 奈良・平安時代の一流女性歌人たち
4 叙景の歌
5 日本の中世歌謡

コレージュ・ド・フランスはアカデミーの権威であるソルボンヌとは違い自由な気風を持った教育機関であり。バトルを初めベルグソン、メルロ・ポンティー、フーコーなどの教授を輩出した。それはアカデミーが中心を求めるものではなく外部によって影響し合うという理念があると思われる。

そこに日本から日本の詩歌の教授として大岡信が招聘されたのだった。彼は和歌の専門家というよりも西欧詩(フランス象徴詩)を経た詩人である。そこで問題なのは日本の詩歌を翻訳で分かるのかという問いであった。それに答えるように、まず最初に紹介するのが菅原道真であった。

彼は和歌の権威であるというよりも漢詩の権威であった。日本の詩歌がまだ和歌に独占される以前に官僚の言語として尊重されたのは漢文だった。彼らの漢文が中国のそれとは違うのは日本独自の表現によって漢詩文として改良していくのである。それが日本古来の伝統ではなく中国からの影響化に仏教や儒教が輸入されていく。そして日本古来の神道と影響し合って行ったのだ。

和歌は当時まだ政治的なものではなく、男女の恋愛として、男が中心というよりも女たちが中心となって和歌が詠われたという。それは男の形式的なものに対しての感情表現が和歌に出ていたとする。男は政治的駆け引きというような、それこそ漢字が官僚的な公文なのに対して、仮名文字は私文的な女の文字とされたのだ。そこに感情を私的な盛り込んで表現していく女性歌人が多く輩出された。

例えば和歌の発祥を相聞歌として見る。それは恋の歌であり、男女間で交わされるコミュニケーションの形として、和歌が成立した後になって勅撰集として、天皇のお墨付きの詩歌として権威づけられる。それは日本人が議論を戦わせる民族というよりは和する民族として、天皇を中心にした詩歌の形を作っていった。

それは紀貫之らによって最初に編纂された勅撰集であった『古今和歌集』の序文に記されている通りである。そこから日本人の季節の区切りとしての四季や稲作文化に纏わる伝統行事が和歌によって伝えられていくのだった。しかし、その一方で女性歌人たちは、むしろそうした和するものから私的な感情をあらわにしていく。

例えばその最初の例として『万葉集』を編纂した大伴家持と紀女郎の関係は家持の愛人に過ぎなかった年上の紀女郎の相聞歌があまりにもすぐれていたので、私信であるのに大伴家持はそれを公に明らかにしたのだ。紀女郎の捨てられた女としての感情表現が大伴家持の選集としての『万葉集』で注目されるのであった。

その女歌の伝統は『古今集』から『新古今集』まで引き継がれていく。中でも最高の恋歌の詠み手として和泉式部が上げられる。当時の天皇との恋歌は勅撰集で取り上げられるよりも彼女の歌集や日記がそれ以上に読まれたという。『紫式部日記』でも歌としては評価されるが女房としては批判された。

そうした恋歌の形として諦念というものを自然に託して詠んだ式子内親王を取り上げる。それは和歌が三十一文字の中で音韻よりも音律(定型として五七五七七の形式)を求めたのは、同音異義語としての掛詞や縁語、また枕詞など多くの技法が用いられていく。そのことが逆に明治になると正岡子規の批判となるのだが、本歌取りから和歌が短詩としての表現の幅を広げていったのは事実である。ただそれが行き過ぎるとみな同じような歌ばかり揃うようになってしまう。

相聞から独泳として人よりも自然に向き合うのは、一つの挽歌(喪失)であり、それは「女房文学から隠者文学」へと折口信夫の分析なのかもしれない。

その反動から貴族の歌よりも庶民の歌に求めたのが後白河院が民謡的な今様にハマっていく。それらの歌は仏教歌(新道的なものも仏教歌のように涅槃を求める歌になっていく)に近くなるのだが、それ以前に男女間の欲望を詠ったものだったのだ。

日本の詩歌の伝統が、菅原道真の漢詩に始まり、『古今和歌集』から宮廷女房たちの歌として広がり、やがて諦念という形態が自然を詠むようになる(女房文学から隠者文学へ)そして別の方向性として後白河院が民謡的な今様を求めていく変化は中心性を求めながらも拡散していく多様な詩歌を生み出していくのかもしれない。そこには伝統の和歌だけではなく、俳句もあり民謡もあり、また近代になれば近代詩もあるというように様々なものを取り込んでいく伝統があったのだ。


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