見出し画像

シン・短歌レッス102

『古今集』の和歌


我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで                     詠み人しらす

『君が代』の歌詞も『古今集』のこの歌が元になっている。「君」は当時は敬意を表す言葉だったが時代と共に敬意に関係なく使われるようになった。ここでは天皇の意味を持たせているのは、『古今集』「賀歌」に収められているからだという。もともとは愛情で結ばれた夫婦の関係ではないかと考えられている。「千」も「八千」も数が多い喩えで中国の誇大表現となっている。苔が生えるのもそんな年月を言っている。ほとんど「永遠に」という意味の強調。宮中で歌われた長寿の歌。

古今集

『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス』から「離別歌」から。

山風に桜吹きまき乱れなむ花のまぎれにたちとまるべく  僧正遍昭

比叡山にやってきた常康親王を桜の下で送る雅な歌。業平の歌はこの歌を踏まえているという。

桜花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに  在原業平

(桜花よ、散り乱れて目の前を曇らせてくれ。老いがやって来るだろうという道が見分けがつかなくなるように。)

結ぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな  紀貫之

志賀の山越えで湧き水を飲んで別れるときに詠んだうた。後の『拾遺和歌集』では相手は女性とされるが、その根拠は不明。上の句が下の句の序詞で水を飲む情景となっている。水の清冽さが爽やかであり、「飽か」は「閼伽」(仏に捧げる水)との掛詞。紀貫之の名歌中の名歌。

100分de名著『古今和歌集』

雑歌

天つ風雲のかよひ路(ぢ)吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ  良岑宗貞(よしみね の むねさだ)

僧正遍照が出家する前の宮中で詠んだ歌。五節の舞は天皇に捧げる舞であり、「吹きとぢよ」という強い命令形は天皇の力を示している。

我が心なぐさめかねつ更級やをばすて山に照る月を見て  詠み人知らず

雅な月と姨捨という現実。下級の者でも歌だとものが言えた。

しかりとて背かれなくに事しあればまづなげかれぬあなう世の中  小野篁

小野篁は閻魔大王に仕えた歌人と言われた。遣唐使批判をしたために隠岐の島に島流しに合うがすぐに呼び戻された。

山里は物の寂しき事こそあれ世のうきよりは住みよかりけり  詠み人しらす

世を憂ふ歌。愚痴文学。

いづくにか世をば厭はむ心こそ野にも山にもまどふべらせ  素性法師

述懐歌、祈りとしての歌。

哀傷

深草の野辺の桜しこころあらば今年ばかりは墨染に咲けよ  上野岑雄(かみむつけのみねを)

藤原基経の死を悼んだ歌。『源氏物語』「薄雲」で藤壺が崩御したときに引歌として光源氏が嘆いた。

羇旅歌

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも  安倍仲麻呂

望郷の歌。

物名歌

をがたまの木
み吉野の吉野の滝にうかび出づる沫をかたまの消ゆと見つらむ  紀友則


良寛と越後人


目崎徳衛『芭蕉のうちなる西行』から「良寛と越後人」。          

わかためにあさ(漁)りしふな(鮒)をいなだきて おともつけすを(食)しにけるかも  良寛

「いなだきて」は万葉集で用いられて「頂き」の意味。また中越地方の方言でもある。良寛は古里の方言が万葉の古語だと知って用いているという。

たらちねの母がかたみと朝夕に 佐渡の島べをうち見つるかも  良寛

良寛の母の出生地が佐渡であり、出雲崎から(良寛の記念館がある)の眺め。芭蕉の佐渡の句は勇壮だけど良寛の佐渡はこんもりという感じだ。

塩法の坂は名のみになりけり 行く人しぬべよろづ代までに  良寛

「塩法の坂」はかなり勾配のきつい坂だったが、改修されて楽に登れるようになったのを喜んだ歌だという。坂を上がって、弟を訪ねたという。

いそのかみふるのふるみちさながらに みくさ踏み分けゆくひとなしに  良寛

越後で良寛と共に古来の歌を詠んだり書に親しむ人がいたという。そういう地方にも(都ばかりが文化ではない)第一級の知識人がいた証が良寛の歌に残されているという。

NHK短歌

選者吉川宏志「切る」。動詞の使い方。

当たり前の使い方をしない。桜→舞うというような、美的な動詞を使いがちだがあえて反対の言葉を使っていく。桜沈むとか?

はじめから沖縄のものなるを順わせ従わせ殉わせ来る  吉川宏志

「順わせ従わせ殉わせ」したがわせの同音異義語の連なり。日本語の特徴。

大海の磯をとどろによする波われて砕けて避けて散るかも  源 実朝

「われて砕けて避けて」劇的な変化、英語的。当時の和歌は雅さ。

<題・テーマ>川野里子さん「光」、山崎聡子さん「あこがれ」(テーマ)~11月20日(月) 午後1時 締め切り~

<題・テーマ>吉川宏志さん「ごめん」、岡野大嗣さん「日記」(テーマ)~12月4日(月) 午後1時 締め切り~

実感とは何か?

吉川宏志『風景と実感』から「実感とは何か?」。

身体感をもつ〈記号〉

試みに打ってみたまえJIS記号〈3B6D〉濃き紅の  加藤治郎

『マイ・ロマンサー』

「JIS記号〈3B6D〉」は「詩」という文字を表しているネットの記号である。言葉が記号化されるときの「濃き紅の」は想像しにくい身体感を持つ言葉である。

慟哭  山田数子

しょうじ よう
やすし よう

しょうじ よう
やすし よう

しょうじ よおう
やすし よおう

しょうじぃ よおう
やすし よおう

しょうじぃ
しょうじぃ
しょうじぃぃ

『日本原爆詩集』

タイトルで意味内容を伝えているが、少ない言葉だけで生々しい感情を伝える詩である。これはリアリティ(実感)がある詩とされる。

短歌の少ない文字数で実感を出すにはどうしたらいいのか?

省略──書かれていないものが見える

説明的な情景描写よりも省略することで作者の感情を読者に想像させる。

声──身体を通して伝わるもの

作者の声→文字(再現)→読者の声
作者が記号で表現できるのは省略を重ねたところの僅かな部分であり、それを身体的言語として響かせる。

肉声を再現させる短歌の読み

ひとひらのレモンをきみは とおい昼の花火のようにまわしていたが  永田和宏

『メビウスの地平』

きみの動作が省略されて、レモンを花火のように喩える。「まわしていたが」という動詞に後に来る言葉が省略されている。沈黙の多い男女間のリアルな雰囲気を醸し出している。いかに言葉で状況説明しても、深い感情までは伝わらない。むしろ省略することで言いたいこと(言えないこと)を想像させる。

醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車  塚本邦雄

塚本邦雄のリズムは短歌の五七五七七のリズムから外れるが、そのことが塚本邦雄の短歌のリズムを生み出している。また「ども」という助詞で関係がない言葉をつなぐことでイメージを膨らませていく。これは塚本邦雄の短歌で広まっていった。

(30p.欠落)

「実感」と「思想」

「辞の断絶」 。短歌に対する外部からの批評、桑原武夫や丸山真男「実感信仰批判」を通して、例えば斎藤茂吉などはドイツへ留学しながも、日本の古典に引き付けられてその「実感」だけを尊重するあまり、論理的合理的概念が育たなかった。それは言葉の断絶ではあるのだが、その実感こそがリアリティあるものとして生々しさを伝えるという短歌側の解答が出てくる。

そこに自然と個人の対立があるとする。

うたの日

7時までが出てなかった。7時過ぎてしまった。タイミングが悪から「疎」。疎外ぐらいしか思い浮かばない。

疎外感さえない君のノートに ひとり詠むうたは孤独感

9時も過ぎてしまった。
11時の「咎」か?だんだん難しくなっていく。

赤シャツを派手すぎと咎められ色は変らず還暦祝い

作るのにやっとでアイデアがない。どんまい記録更新中だった。

『百人一首』


映画短歌

過去負う者

『百人一首』

きりぎりす鳴くや交差する 路上の分離帯をこへ事故死の果に


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?