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歌壇が批評を受け止めない短歌世界

『短歌と日本人VI 短歌における批評とは』藤井貞和編集

短歌ブームの中でこそ必要とされる短歌批評の可能性を問う.〈批評とエッセイ〉選歌添削論批判…塚本邦雄/坪井秀人/平山良明/村井紀/三枝昂之/今野寿美/河野裕子/一ノ関忠人/岡部隆志/山田富士郎/〈座談会〉成瀬有・藤井常世・松坂弘・藤井貞和/〈コラム〉辻仁成/佐藤深雪/荻原裕幸/八木忠栄/石井辰彦


藤井貞和「批評の根拠──人間の声──」

例えば中国では天の楽器が鳴らされて(雷とか)、そこから詩が生まれたとされる。日本でも和歌の起源は神話として神々の物語があり、『古事記』ではイザナキ・イザナミの歌が語られる。そうした歌の起源について神謡から求める国文学を説いたのは折口信夫だが、祝詞としての歌、例えば万葉集のスサノヲ命が歌ったとされる歌が上げられている。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 
     八重垣作る その八重垣を

しかし、『古今集』の仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」とあり、そこに『古今集』紀貫之の最初の歌に対する批評があり、それは歌の起源を神の物語に求めるのではなく人心に求めたのだ。

そのことから天皇の歌を神々のものとするか人間のものとするかは、近代の論理からは神々の歌とするには無理があり、やはりそこには人間の声が響くのであった。

村井紀「歌会始めと新聞歌壇」

「歌会始め」は伝統ある歌会だと思っていたが始まったのは明治の近代化の一つとされる。つまりそれは国民側からの天皇制の神格化を望んだ行事であり現在でもそのように天皇制の中で臣民として歌を捧げるという行事になっているのである。そう思うとそれに加盟し実際に選者となる歌人たちは天皇制を支持しているのか?そのへんがあいまいなままに歌の伝統として格式付けられているのである。そのことを問題とする歌人はあまりいない。

例えば明治ならば正岡子規や与謝野鉄幹による皇室短歌の伝統を批判する運動はあったのだ。それが「短歌滅亡論」として、歌人たちの中にはそのまま、伝統和歌の宮廷の系譜(流派)に従っては駄目になるという危機意識があったのだ。それが国民という新聞が新たに名付ける政治的運動として、なし崩し的に天皇制と結び付けられていく皇国主義となっていくのだった。

そのような「歌会始め」や「新聞歌壇」からは優れた歌が選ばれながらもただ消費されるだけになっている。歌人はそれらとは別の場所で生存しているのであり、それらのシステムは歌人を存続させる下位システムとしての役割しか果たしていないのである。短歌や俳句の文芸が一般的な芸術と違うのはそういうところなのだろう。つまり短歌の中にある天皇制をそれまで問題としてこなかったのである。

村井紀は折口信夫の歌論をも否定していくのだがなかなか難しい問題をはらんでいるのは、新聞や大手マスコミがそうした短詩を芸術としてではなく、消費される言葉として、利用しているからだろうか?現在のキャッチコピー化短歌はまさに消費文明を担っていると言えるのかもしれない。それとは別のところで天皇制も機能しているのだが。

坪井秀人「滅亡と滅亡のはざまで──大正期短歌論争を読みかえす──」

1910年代は明治から大正にかけて近代詩が跋扈した時代であり、それは歌(詩)に新しいスタイルを西欧から持ち込んで新体詩と呼ばれた時期である。口語と言文一致の庶民にも理解できる詩の導入ということで「短歌滅亡論」が出てきた時期でもある。尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に誘発されて、石川啄木が短詩としての利便性と時代に合った短歌として、『一握の砂』を刊行するのだ。

さらに純粋に技術論としての正岡子規の「写生論」も、そうしたナルシズムを廃して、例えば短歌が新体詩に影響されて自我を読み込む浪漫主義は啄木も属した「明星」派の与謝野鉄幹などの歌にあらわれてくる。そういしたナルシズムを廃した写生としての技術論は当時隆盛だった宮廷歌人を否定したもので、そうした当時の伝統和歌である桂園派から離れることで新たな短歌を築けるとしたのである。それは歌が和歌から短歌へと変わる契機になったのである。正岡子規の「写生」の方法論は多くの者にうけいれられていたが、当時の庶民から国民へと国家観が問われる中で全体主義化していくことになる。その一つに「実相観入」が説かれることになる。そこにナルシズムからナショナリズムへ、短歌の技法から短歌の精神論へと繋がっていくのは、尼ヶ崎彬「短歌と詠嘆ー短歌という形式ー」に詳しい。

その斎藤茂吉への批評として折口信夫(釈迢空)『歌の円寂する時』が書かれた。

「歌論のなかの〈女〉」今野寿美

明治の短歌批評に与謝野鉄幹の女歌批評があり、そのままでは「亡国」になるというので、「大丈夫の歌(男歌か?)」を提唱した、それは和歌が物真似の技工を争うことに始終して「小丈夫」と成って弱さばかりを強調する。それは実際には香川景樹を崇拝する「桂園派」を批判したのである。

その流れを受けて正岡子規『歌よみに与ふる書』では「古今集」批判となって、「万葉集」讃歌というよりも「もののふの和歌」として実朝讃歌に成っていくのである。そのときに実朝の直情の観察眼の在り方を、屏風絵風の和歌から切り離していく。

しかし鉄管の明星派は、与謝野晶子という女歌の豪傑がいたのである。また「大丈夫の歌」よりは「小丈夫の歌」として砂場で蟹と戯れる石川啄木などもいた。その系譜は寺山修司から俵万智まで現代短歌に受け継がれていく。

もうひとり重要なのは折口信夫(釈迢空)であり、正岡子規の「アララギ」短歌から真っ向対抗する形で「女歌」の伝統、それは「もののふ」和歌に対する「手弱女(たおやめ)」和歌の伝統について語っていくのである。それは古代から巫女的な文化として天皇制以前からあったものだった。例えば『万葉集』でも人麿や額田王のような巫女的な歌が詠われた。それらは現実世界(写生)よりも想像世界(幻想)を詠っていく。塚本邦雄が折口信夫のあとを受けて幻想和歌として平安の王朝和歌に見出したのも恋の夢想やかつての幻想としての歌である。

その一方で「手弱女(たおやめ)」和歌は男尊女卑の制度の中で詠われた歌でもあったのだ。そのことが虐げられる女たちの恋の幻想や別の夢物語世界を描いていく。先ほど上げた与謝野晶子よりも山川登美子を持ち上げる。

それは折口信夫『女房文学から隠者文学へ 王後期朝文学史』で批評されることになる。つまり平安の女房サロンから坊主(尼僧)の隠者文学へと向かっていくのだった。

「短歌に歌われた身体──「身」と「わが身」を中心に──」河野裕子

平安和歌では女の「身」が実態として和歌に詠われることが多いのだが、いつしかそれは器としての身として、つまり空「うつせみ」として詠われるようになっていく。それは魂と肉体の二元論的思想の現れで(仏教思想なのか?古来からある霊魂思想=神道)万葉集にも詠われていたという。斎藤茂吉の晩年には「うつせみのわれ」が詠われた。

いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも 斎藤茂吉

『つきかげ』

「うつせみ」は「身」にかかる枕詞だという。

「短歌の「批評性」について──戦後短歌のアイデンティティ」岡部隆志

これまでさんざん短歌批評について語ってきたのに俵万智が批評に値いしない短歌だとか批評を無効にする短歌だとかよくわからない。そういう「政治性」とは別のところから出てきた歌人なのだろう。戦後の短歌批評が「政治」批評も絡めて論じたこともあり、そうした意見も出てくるのだろうか?それは批評の放棄であって批評がないわけでもないのである。ただ社会の風潮が短歌も売れれば上等だみたいな経済的な指針が、コピーライティングな内輪としての短歌を育んでいるような気がする。そのことに明確に批評したのが折口信夫『歌の円寂する時』なのだが。

座談会などを読むとあたかも短歌についての批評する人と作る人が一緒だから作品形態の批評がないという意見が出てくるところにこの歌壇のどうしようもなさを感じてしまう。それまでさんざん「短歌滅亡論」が言われて来たのはなんだったのだろう。俵万智の短歌が批評性を無効にする短歌だったとか言っていることがよくわからん(それは批評出来なかったということでは)。結局、結社主義と歌壇が一緒になって、そこに天皇制が被さってごちゃごちゃになっているのかと感じてしまう。まあ売れればいいということなんだが。

例えば釈迢空(折口信夫)と斎藤茂吉の間で「万葉調」について議論されたのだ。それで釈迢空が「アララギ」を出たのではないのか?他のメンバーは茂吉の意見に従って釈迢空のような危機感がなかったから、釈迢空は『歌の円寂する時』を書いたのだ。その問題は今でも有効なのは歌壇に釈迢空の批評を受け止められなかったということではないのか?あと批評家がいないからという、どうでもいいようなことを言う人もいて驚いてしまう。


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