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シン・短歌レッス128

王朝百首


    夕月夜潮満ち来らし難波江のあしの若葉をこゆる白波          藤原秀能   

塚本邦雄『王朝百首』をまた借りてきたので、再開。藤原秀能も初めて聞くような名前である。藤原家はみんな一緒のような気がしてくるが。

新古今和歌集で出てきていた。全く覚えてなかった。

『新古今集』の春歌上で後鳥羽院が選定したが、藤原定家は凡作とけなしていたとか。山辺赤人の歌と比較されたようだ。

和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る 山辺赤人

濃い授業があった。このぐらいやってくれれば和歌も覚えるかも。

藤原定家と後鳥羽院の仲違いはそれは藤原秀能の評価を巡ってかもしれない。『新古今』には十七首入選。

現代短歌史

篠弘『現代短歌史Ⅱ前衛短歌の時代』から「前衛短歌をめぐる論争」。塚本邦雄X大岡信、岡井隆X吉本隆明、寺山修司X嶋岡晨、の三本。最初の二本は「短歌研究」が仕掛けたようだが、寺山と嶋岡の論争は、寺山の「翼ある種子」に嶋岡が批評を書いたためにおきた論争。ただその内幕はその後に寺山が嶋岡を呼び出して、売る為にどんどん書いて欲しいと言ったとか。自分も反論するから、短歌を盛り上げていこうということだったらしい。

その中で一番みのりがあったと思われるのは塚本と大岡の短歌の方法論をめぐっての論争で、新しい調べ(五七調をどう乗り越えていくか?)について、塚本が大岡に答える形で実践的な作品をものにした。それが『装飾楽句』であり大岡も塚本の力作を認める形となった。大岡は短歌が近代詩のようなサンボリズム(象徴)詩を通過してないから古い形式の歌しか読めないということに対して、塚本がそんなことはなく、自分自身は新興俳句俳句に注目していて、新興俳句のサンボリズムを取り入れ、七五調ではなく、句跨り句割れを意識的に行っているという。その成果として『装飾楽句』を発表したのだという。塚本邦雄の手法は今では当たり前のように行われていて、その次の世代の俵万智になると極めて自然な形の口語体で句跨り・句割れが行われているという。

岡井隆X吉本隆明の論争は、吉本の方が短歌の認識不足ということで、石川啄木を今更出してきて散文化の可能性などと言っていると岡井隆に反論されていく。要は吉本が実験的と称賛した赤木健介の行分け字余り短歌が短歌以前に歌(詩)としての内容が貧弱すぎているということで、短歌の定形はそんなもんで崩れるものではないと主張した。ただ吉本の論理は単純な面があるかもしれないが、次世代の俵万智とかを見ると散文化(吉本は小説化と言っている)は行われているような気がする。岡井隆が定形・韻文の短歌の伝統をこだわっているうちに、次世代はコピー化という散文短歌が主流になっていた。

寺山X嶋岡論争は、寺山の短歌がいつまでも青春短歌でもう少し自己を深める歌を読むべきだという批評に対して、それも演技で短歌は遊戯として始まった伝統があり、そうしたマンネリズムも一つの手法だと反論する。ただ寺山は短歌だけに満足することなく、それ以後は歌(流行歌)の歌詞や演劇に表現を拡大していく。ほとんどテーマは変わること無く表現形態の違いをみせてマルチ作家となっていくのだった。最終的には映画という大衆芸術になっていくのが、寺山の表現者としての力量だったのかもしれない。

齋藤史

『記憶の茂み: 齋藤史歌集 和英対訳』から

1940年合同歌集『新風十人より』から。

わが道やここに在りきかへりみむ三十に足らぬ一生(よ)をあはれ

これは齋藤史自身の歌ではなく栗原中尉に捧げた歌だという。次の短歌を読むとそうかなと思う。

天皇陛下万歳と言いしかるのちおのが額を正に狙はしむ

さらに続けて連歌として詠み続けた。

ひきがねを引かるるまでの時の間は音ぞ絶えたるそのときの間や

御いくさのきびしきときを家妻のわれは埃ばかりたててくらせり

若くつたなき日にうたひたる湖の色や今見る湖は告ぐべくあらぬ

嗔(いか)りたる我のこころのみじめさは冷えたる飯を噛みておもほゆ

田舎への疎開生活とモダニズム時代との落差。

春昏るるわが居まはりやおぼろにて灯(あかり)は点けずくれてゆかしむ

この一夜よくよくいねて朝(あした)濃き山吹の花のさかりに逢はむ

それでも生活の中で歌を歌い、自然の中に歌を見つける。

この冬は何を燃やしてすごすべき我の命やすでに冷ゆるを

齋藤史は内面を素直に詠むのが上手いのかもしれない。

堕ちてゆくこころの中にいくひらか花のごときもひるがへりたれ

どんなときも花のこころを忘れない。

華奢なるはすでにそぐはずひそめたるいのちの隅に一点の朱(あけ)

最後の一点の朱(あけ)が決まっている。それをあけと読ませる。

NHK短歌

光る愛の歌 題「手紙」
大河ドラマ「光る君へ」とのコラボ、スタート。選者は俵万智さん。ゲストは「光る君へ」で藤原道綱の母を演じた財前直見さん。テーマは「手紙」。司会はヒコロヒーさん。    

俵万智はイメージより先生という感じだった。声が低いからだろうか。ドスが効いている感じ。ふざけられない雰囲気を感じた。テーマは手紙ということは和歌の始まりが言葉のやり取りから始まったということだ。モノローグ短歌では駄目みたい。

藤原道長の母は『蜻蛉日記』の作者。プライドが高い女性ということだった。百人一首にあるという。

<題・テーマ>川野里子さん「橋」、俵万智さん「嫉妬」(テーマ)
~4月22日(月) 午後1時 締め切り~

俵万智

『短歌研究2024年4月号』が俵万智特集なのでじっくり読んでみることに。それまで俵万智の歌は避けてきたが(『サラダ記念日』は当時の批評とかで読んでいたかもしれない)短歌をやるに当たっては今は避けて通れない道なのだと悟った。

まず自分が思う俵万智の歌は、口語短歌で独自(当時の若者)のリズムがある先導者としての俵万智の偉大さだった。それはポッと出の女子大生短歌ではなく、教師としての古典短歌を学んでのものだった。やはり俵万智の短歌の指導教授は、佐佐木幸綱なのだ。

それぞれの歌人が選ぶ俵万智新旧の歌を上げているのが面白い。まず伊藤一彦。

我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ 俵万智

『サラダ記念日』

真夜中の間違い電話に「もういい」と言われておりぬもういいんだね

『チョコレート革命』

『チョコレート革命』は三冊目の歌集で2000年代に入ろうとする1997年だった。大人の恋愛を描いたとされる歌には、すでに破壊的勢いはないように思える。ただその言葉の裏にある言葉の正確さから自身の感情(詠嘆)を読み込んで共感させているのだった。そこにあるのは孤独な俵万智の恋する姿であった。『サラダ記念日』は同志的なのだ。

夕焼けてゆく速度にてコロッケが肉屋の奥で揚がり始める

『サラダ記念日』

馬に乗り海をゆく子が振り向きぬ触れえぬ波光のごとき笑顔に

『オレがマリオ』

内山晶太選。選者が知らない人ばかりなので困るな。

『サラダ記念日』が口語なのに対して『オレがマリオ』(2013年)ではきっちり文語体だった。そのへんの歌の形が古風な印象である。『サラダ記念日』でイメージ付けた俵万智像がそのまま主体性となっていくので、後者の歌は短歌の欠点であるという動詞の使用もバランスが崩れた俵万智像となっているという。褒めているのか、貶しているのか?俵万智の流動性ということで褒めているのか。それは伝統短歌をやろうと姿なのか?そこにバランスを崩した下句の八音七音の破調があるという。

チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月
はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり

『かぜのてのひら』(1991年)

浦河奈々は『サラダ記念日』がワクワクする軽やかな感情だったものが、『かぜのてのひら』になると女の情念的な歌が多くなるという。『サラダ記念日』のあとがきで「原作・脚色・主演・演出=俵万智」とされたのが、ここでは私小説的な情念の女として歌っている。ポップスから演歌かいな。

「寒いね」と話かければ「寒いね」と答える人のあたたかさ

『サラダ記念日』

バスのように高速船に乗る人ら外を見ることなく島に着く

『オレがマリオ』

「寒いね」のリフレインは掛け算だが、そこにマイナス同士を掛け合わせプラスになる逆転させてゆく発想。シンプルな形式そのままの俵万智の人柄だという岡本真帆。高速船の歌は外の人と島の人との非日常と日常を同時に重ね合わせてみせた。これは歌のテクニックだろう。岡本真帆はいい人なんだろうなと思った。

大きければいよいよ豊かになる気分東急ハンズの買物袋

『サラダ記念日』

カラスミのパスタ淫らにブルネロディモンタルチーノで口説かれている

『チョコレート革命』

今ならこんな非難轟々の歌を詠まないと思うが、あえてそれをやっているから記憶に残るのかもしれない。そういう俵万智の強かさだな。固有名は短歌で主張するのは個の存在感なんだろうが、『サラダ記念日』のあとがきを読む限りこれは歌の中だけなのである。そこに流行の固有名のアンテナを絶えず張っている俵万智がいるのだった。「ブルネロディモンタルチーノ」なんて始めて聞いた。小佐野彈は、中学時代にその言霊に取り憑かれ大人になって飲んでみたいと思ったという。そうか、缶酎ハイのようなアイテムだったのか?それは歌枕のような幻想性ということだ。酔いの幻想性。

「今日で君と出会ってちょうど500日」男囁くわっと飛びのく

『サラダ記念日』

子のドラムドンドンタッツードンタッツ「シャーン」のところで得意そうなり

『未来のサイズ』

そんなことを言う男がいるかと言うと俵万智の廻りにはいそうである。村上春樹的というか彼の主人公は、絶えず数字を出していなければ存在感がないという男だった。その本歌取りだろうか?

二首目のドラムの音は短歌的加工されていると思うがその熱意がそう聴かせるのだろうな。「シャーン」の技術は息子よりも母の得意顔のようにも感じる。工藤吉生はそれは言葉の上で愉しめばいいという解説にもならない解説だった。つまり同調しろと。

簡潔と詠嘆ー短歌という形式ー

佐佐木幸綱『日本的感性と短歌』尼ヶ崎彬「短歌と詠嘆ー短歌という形式ー」より。

 和歌はもともと長歌と短歌があり、長歌はなかなか普通の人が作れるものではなく、それなりに芸術家(専門職)が必要とされた。柿本人麻呂や山上憶良「貧窮問答歌」など、近代でも与謝野晶子は「「君死にたまふことなかれ」を書いたりした。

それに比べて短歌は誰でも詠める歌として、(師匠とか天皇に)唱和することや恋文(相聞歌)として発展していく。それが専門職のようになっていくのは勅撰集の『古今集』から『新古今集』のあたりか?桑原武夫の「第二芸術論」もあながち誤りではないのである。

現在でも短歌だけで芸術性を問うよりは連歌で問うような専門職化しているのだと思う。だから歌集は歌人の日記というよりも芸術作品となりうるのだった。けっして三十一文字の短歌だけで認められているわけではないのである。

短歌は諺として日常性を詠むが詩は物語としてストーリーを詠むというのが大きな違いだという。それは詩では固有名は重要になるが短歌の場合には必要ない。地名は歌枕として、例えば吉野だったら桜の名所ということを思い出せばいいのである。そういう今ではどこにもない場所の比喩として(歌枕)としてかつてあった伝説の姿として語られるのである。芭蕉が西行詣での旅で出会ったのもすでにそんな場所すら面影ない土地の姿であった。だからその歌と場所が伝説となるのである。

ただそれを物語とするには短歌だけでは無理なのである。そこで日本では歌物語という和歌から物語を発生させて、韻文と散文の組み合わせとして物語文学が広まっていく。芭蕉の俳句も紀行文という散文の中で詠まれる韻文としての俳句なのかもしれない。そこに諺としての隠喩が概念よりも明確化させるのだ。

そしてその諺は時代と共にコピー化と成っていくのは必然なのだ。しかし、そこに歌集という物語は古典として残るのが俵万智の『サラダ記念日』だという。

物語の本質は「泣ける」という感情移入だが、諺はその一歩手前で冷静になっている必要があるのである。それは相手を説得させる言霊の力なのである。

和歌の長歌がこの説得という方法に依存したのに対して短歌は詠嘆という感傷によって成り立つ。山上憶良「貧窮問答歌」にしても与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」も反対者やそのような立場にないものを説得していく歌なのだ。

それに対して短歌は説得する必要はなく共感させればいいのである。文章の見本となった『和漢朗詠集』ではそのテキストはまさに朗詠することで感動を共有していくというテキストなのである。そこには漢詩と和歌が並列されているのだが、漢詩は和歌と同じ長さぐらいに、つまり朗詠することに適した長さに切り取られているという。漢詩の絶句なら起承転結という論理性があるのだが、長いので転と結ぐらいの白文集(白居易の詩の用例集みたいなものか)にしているという。

そこに和歌を重ねて、これが
詩の心なんだと権威的に示す。そこに共感していく。詠嘆とはそうしたものなのである。

映画短歌

『ソウルメイト』

本歌は俵万智に挑戦。

我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ 俵万智

27クラブぶいぶい分裂し魂という友は彼岸に 宿仮


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