鐘響く祭囃子や人恋し
町田の駅前で祭りのお囃子太鼓とかやっていたが、暑いのか見物人も少なかった。祭りの盛んな地方の写真とかアップされているのを観ると哀しい限りだ。街の祭りは、そういう郷愁がいいのかも(地域住民の共同体の希薄さが出ている)。
録画していた映画『百花』を観た。認知症を患った母と母に捨てられた記憶がどうしても忘れられない息子の物語。母親役が原田美枝子で息子が菅田将暉なので、役者の好演もあってなかなか魅せるドラマになっている。ホームに入った母の願いで半分の花火を見に行くのだが、母親が迷子になってしまう。母親は息子が迷子になったのだ言い張る。そういう自分中心しか見てない親子のドラマとして考えさせれた。
誰しも完璧に記憶していることはなくて、忘れていることの方が多いのだが、それがトラウマのように忘れられなくなっていたりもする。
日曜の朝は「ジャズトゥナイト」の聴き逃しを聞きながら風呂に入るのが習慣になっている。
「ジャズトゥナイト 本とジャズ」で植草甚一『ぼくたちにミンガスが必要なんだ』が紹介されていた。そうバイトしていたジャズ喫茶に植草甚一「スクラップブック」が置いてあって読んでいた。植草甚一のエッセイの書き方がジャズ風で即興的にミステリーを紹介するようなエッセイだったような。当時はネットとかないから、こういうオジサンの紹介するエッセイでジャズの聞き方とか学んだ。音楽だけでなく黒人の公民権運動とかも。
読書。なかなか捗らない。『ナボコフのドン・キホーテ』はドン・キホーテを騙そうとする悪意の夫婦の話。大江健三郎『憂い顔の童子』でも描かれていた。ナボコフによるとそういう悪意は楽しいもので、ドン・キホーテに降りかかるはそうした残酷さなのだが、それは人間の愚かさなのだと書いてあった。それを魔法と呼んでいる。誰もが取り憑かれてしまうものだと。
大江健三郎『さよなら、私の本よ!』はあと少しなのだが、昨日で読みきれなかった。最後のほうもうだうだ長いんだよな。ドストエフスキー『白痴』の話に擬える。ムイシュキン侯爵は古義人でロゴージンが繁だったとか、このへんの小説は読んだけど忘れているから、ロゴージンがどんな人物かも覚えていない。大江健三郎はそれを比喩的に使っているのだが、正直混乱させるだけだと思う。『白痴』の話が『ドン・キホーテ』と繋がっていく感じはするのだが。
『ドン・キホーテ』の本も半分以上読めた。こっちは絵入りだからスラスラ読める。ナボコフが飛ばしていいというドン・キホーテ意外の騎士道物語も面白いのだ。
電子書籍は萩原朔太郎『詩の原理』。を少し。今日の一句。
郷愁はよくないかも。
こんなもんか?
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