見出し画像

「文学とはなにか?」についてのパロディ的作品(よく出来ている)

『文学部唯野教授 』筒井康隆(岩波現代文庫)

これは究極のパロディか,抱腹絶倒のメタフィクションか! 大学に内緒で小説を発表している唯野先生は,グロテスクな日常を乗り切りながら,講義では印象批評からポスト構造主義まで壮観な文学理論を展開して行くのであったが….「大学」と「文学」という2つの制度=権力と渡り合った,爆笑と驚愕のスーパー話題騒然小説.

第一講 印象批評
第二講 新批評
第三講 ロシア・フォルマリズム
第四講 現象学
第五講 解釈学
第六講 受容理論
第七講 記号論
第八講 構造主義
第九講 ポスト構造主義

書籍でも買ってあるのだが見当たらないので、Kindleの読み放題で読んだ。大学教授を取り巻く政治的なことや週刊誌ネタ的なことなど、テリー・イーグルトン『文学とは何か』をパロディ化した小説。小説内の唯野教授の授業が『文学とは何か』なのだ。『文学とは何か』は下巻も読み始めていたのだが、筒井康隆の小説の方が面白く、イーグルトンは棚上げして、こっちを先に読んでいた。

文壇ではなく、大学内の政治的駆け引きのパロディ化しているのだが、これはある程度文壇内の世界もそういう政治的駆け引きが行われているのだろう。それは筒井康隆原作映画『文学賞殺人事件 大いなる助走』でも描かれていた。かなり私怨的な部分がある感じだが、大学教授でスキャンダルというと、あの人だなと思える評論家とか(教え子スキャンダルの)連想してしまうが、文学理論の講義はテリー・イーグルトン『文学とは何か』を元にしているのでわかりやすく参考になる(重要書籍を上げている)。

政治的なことには参加しないと宣言する人もいるけど、そういう言動も政治的なことであるということ。世の中は政治で動いている。そういうのに関わりたくないとなるとアナーキーでいるしかないのだ。筒井康隆はある部分アナーキーな作家なのである。

大学教授ー生徒という関係性が作者ー読者という関係性を形作っている。その根本に筒井康隆の「虚構」がある。読者も「虚構」なのか?それは実体がないものはなく、意識の中に「虚構」という実体を疑うことが出きないプラトンのイデア的なものがあるのかもしれない。それは作家の書くことなのだ。

その現象学としてのフッサールの講義をパロディ化しているのが、そのまま筒井康隆の精神世界の根本にあるのだろう。わかりにくいが、この辺は筒井康隆のSF(サイエンス・フィクションという原語に近い意味)なんだと思う。グノーシスのSF的解釈。つまり現実はすべて偽物(この政治状況や生き方が)であり、その虚構世界を描くことが本質としての根本に近づけるかもという期待の文学であるのかな。

それは太陽に照らされた(アポロ)的世界(西欧哲学や批評の世界)ではなく、月の実相を見る(ディオニソス)的世界(文学的な世界)というような。唯野文学部教授は筒井康隆の虚構で照らし出された月光の世界なのだ。

デリダの脱構築でポスト・モダンを批判するのだが、それはポスト・モダンが権力的な政治状況を批判したことを批判するのではない。政治的状況の行き詰まりとしての打開策としての脱構築なのだ。誤読を中央集権的な権力機構によりそうことではないのだ。そのようなアメリカの脱構築派をデリダは批判している。日本にもいるよね。

デリダはこう言いました。『アメリカのディコンストラクションは、自分で自分を閉ざされた制度の中へ閉じ込めてしまった、その結果アメリカ社会を支配している政治経済を有理にしてしまっている』つまりさ、ポスト構造主義ってのはもともと、さっきいったようにマルクス主義の政治学を、破綻したものだと決めつけたところから出発していることでもわかるでしょ。デリダのディコンストラクションってのは、そもそもが政治的実践だったの。(筒井康隆『文学部唯野教授』)

このへんはフーコーについて理解が必要だ。ただその後の講義はなく、途中で終わっていた。エイズについての記述など不快な表現もあるのだが。そういうことが断筆宣言につながったり、また復帰して懲りずに問題を起こしたり、どうしようもない作家だとは思うが近頃の行儀の良すぎる作家よりは刺激的である。

参考書籍:テリー・イーグルトン『文学とは何か――現代批評理論への招待(上)』





この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?