見出し画像

日本では浸透しやすい「群集心理」

武田砂鉄「ル・ボン『群衆心理』 2021年9月 (NHK100分de名著)」

善良な個人が狂暴化するとき
人びとが無個性化した「群衆」と化す過程を辿り、その特性や功罪を考察した社会心理学の名著。なぜ群衆は合理性のない極論を受け入れるのか? 指導者やメディアはいかに群衆心理を煽動するのか? 気鋭のライターが政治のあり方からネット炎上までを俎上にあげ、現代にはびこる群衆心理の問題をあぶり出す。


第一回「群衆の時代」

フランス革命のパリ・コミューンの時代の出版。後にナポレオンが出てくるのだ。群衆という心理。パリ・コミューンを支持していたと思ったらナポレオンを崇拝する。

群集心理は有意識的なものではなく無意識的なもので、理性よりも本能的に従属する自然状態に近いのかもしれない。集団で行動する生き物の宿痾。合理的行動よりも「空気」という同調圧力。その組織内にいる限り逆らうのは難しい。

松山巌『群衆 - 機械のなかの難民』で日本で最初に「群衆」が使われたのは明治になってから。「日比谷焼き打ち事件」が大きな転換点でそれから新聞法で権力はメディアを統制していく。治安維持法が出来たのもこの時期で、大正時代はすごいエロ・グロ・ナンセンス(夢野久作はそういう新聞記者だった)がはびこっていたのだ。

それが自由民権運動もエロ・グロ・ナンセンスも、昭和になるとさっぱり消えてしまった。大弾圧があったのはそうだと思うがメディアの権力側への忖度があったのだという(河原理子『戦争と検閲―石川達三を読み直す』)。いきなり戦時になって検閲が行われたのではなく、徐々にメディアが忖度していくのだ。今の時代は注意が必要だ。

第2回「単純化」が社会を覆う

「一時思想」と「根本思想」で分けている。

「一時思想」というのは一時の感情に任せて行動してしまうことだと思う。

「根本思想」は論理を突き詰めて考え抜かれた思想だと思うがもはやこれは望めなくなっている。瞬時に白黒判断を求められる社会で、灰色である猶予は許されなくなっている。余裕がないのだ。

群衆に浸透するのは単純化された思想だから、現状に満足すれば肯定的になり、不満でもより下のやつを見下して肯定感を得る。そんな中で敵を作り出すことが一番浸透していく。人のせいにしていればいいわけだ。それが個人よりも権力に向かわないのは、権力側も上手く敵を作り出すことをしているから。

単純化はそれほど悪いことにも思えないが、シンプルな思考でいいと思うが他者に対する想像力のなさ。群衆はイマージュで物事を考えると言っているがそれは悪いことなのか?へんに陰謀論にハマる場合もあるが疑ってかかるべきことがある。まあ大勢に染まらず自分で考えて行動することだろう。

一世代で経験が消えてしまうというか語り継ぐことが出来ないことをどうするか?戦争体験とか、世代間ではギャップがある。歴史を学ばないというか権力側が都合の悪いことは語らず目前の夢ばかり語る。オリンピックとか感動の押し売り。それはマスコミにも責任がある。教育を権力側に委ねない。

アメリカ連邦議会議事堂襲撃事件は、トランプを罰せられないのか?先導した奴は逮捕されたのか?Qアノンとか。日本も起きる可能性は大いにある。その対策はあるのだろうか?ル・ボンは「経験」と「道理」と言っているが一番日本人に欠けているものだと思う。感情で走ってしまう人が多くなってしまった。

連帯とか言っているけど、連帯ってなんだ?逆の連帯もあるわけだし、連帯を先導するやつも出てくるだろうし、それほど安易な解決策はないものだ。考える訓練をしておくということしかないような。哲学とか一番流行らないことだが。

第三回「操られる群衆心理」

群衆は人格を持たない。だから責任を取らず指導者や扇動者の思いのままになる。「指導者」は思想家ではなく実行家。熟考を許さない。

指導者が群衆を操作する3つの手段。「断言」と「反復」と「感染」。

「断言」は検証されない。それが選挙の公約となると実現しなくとも言ったもん勝ち(東京都知事の例、小池百合子の「7つのゼロ」)

「反復」は嘘もそう思い込ませる。

「感染」は同調圧力。空気でそう思い込ませる。ダイエット広告や水商法というやつだな。水道の水で十分。

メディアの功罪。「世論の気配」を伺い独自性がなくなる。右へ倣えの大衆操作。「共感」の羅列。「異質」の排除。メディアが責任を取ることはない。言いっぱなし。権威に弱い。政治家だけではなく、学者とか有名人に。論議なき独断。少数者の排除。

第四回「群集心理の暴走は止められるか」

悲観論しかないのだが、ル・ボンは群衆には「徳性」があるとする。「犠牲的な無私無欲の態度」は、レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で述べている。東日本大震災でも無私なるボランティアが行われた。コロナ禍でも方方『武漢日記』での地縁・血縁で助け合う人びとが描かれている。日本でもその動きはあるのだ。ただ政府が何もしないからだろう。もしかして、政府はいらない?

政府は監視・警戒するが援助には消極的。「人流」なる言葉で人々の動きを監視していく。それがネット社会では活用される。生憎ネット後進国の日本は、中国に立ち遅れている(感染監視ソフトの不具合とか)。

群衆を魅了するカリスマ。先天的な人物として、イエス、マホメット、ジャンヌ・ダルク、ナポレオン(ル・ボンの例は問題ありの感じが)。ガンジーとか毛沢東とか東条英機とか。

後天的な例として、アイドルやスター選手などネットで人気を集めたカリスマ。ビヨンセや大坂なおみのフォロワー数は、一国の指導者を超える。社会を変える力となるSNSの有効性もある。環境活動家グレタ・トゥーンベリ。

教育も群集心理に影響を与える。権力側が教育に介入するのは、まさにこの点だった。学校教育の場が洗脳教育となったならば、権力側の都合のいいことばかりである。

物事を鵜呑みにせず個人個人が自分で考える習慣を持つ。暗記教育や競争社会の弊害(瞬時に回答を求められそれは権力者に則ったものとなる)。

「わかったつもり」の恐ろしさ。「わかりやすさ」の落とし穴。それは「無関心さ」に繋がっていく。落ちこぼれていく者を無視する社会。


この記事が参加している募集

#読書感想文

191,797件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?