見出し画像

かさぶたを剥がして卯の花くたしかな

どんよりした曇り空。在るのか無いのか我が心模様だった。顔の傷は時間と共に小さくはなっているのだが、昨日は気分が優れなかった。図書館に予約本を取りに行くのも億劫に感じて、せめて返却する本を読み終わってからと思ったら昼過ぎまでかかってしまった。読書を少し整理しようと借りる本は少なくしているのだが、予約本は次々に入ってくる。そのときに話題の本だったりするのだが、すぐに借りれれないとそうした読書欲も減退したときに来たりする。世の中上手く行かない。

「100分de名著宮本常一『忘れられた日本人』」を見る。共同体肯定論か?すでにそうした村落共同体は失われているわけで、それを復活させろということにはならないのだ。例えば戦争協力という共同体を体験した戦後世代がそれを否定していくというのは当然の流れとしてあるのだが、そういう戦後世代を後ろ向きだと批判する世代が出てくる。結局何が正しいのかわからなくなっていく。

宮本常一『忘れられた日本人』は直接民主主義のような気もするけど今そういう地方自治体も大きくなりすぎて利権構造だけで動いていく。それが少数者黙殺の社会となっていくのだろうか?『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読み始め。国民社会主義。民族共同体。国家社会主義ではないという。国民というと民族だけの問題なのか?国家は民族を超えて理想の国作りなのか?プラトンの「国家」論。

良い悪いの判断は相対的なものなので判断基準とはならないと思うのだ。例えば悪人は悪い人だから抹殺せよというのとは違う。存在論的に悪人である存在が問題であって、生存しなければならない欲望は誰もが持っていいものである。その中で利害関係はあるだろうが。

宮本常一『忘れられた日本人』で一番面白く注目を浴びたのは「土佐源氏」という夜這いの爺さんの話だった。家畜の生業をする御者が家畜の面倒を見るふりをして、その妻に手を出す。そういう喜びも与えているのだと。それはデカダンスなことなんだがそうした裏取引もあったということだった。悪人というのはそういう人の職業で身分が卑しいとされた。悪人正機説の悪人はそういう生まれながらに虐げられている人。

とりあえず「シン・現代詩レッスン」をクリアさせなければ。抒情的な詩歌は戦争協力をもたらしたから、理知的な詩が必要とされたのだ。それはある部分大衆を離れて難解詩になっていく。

身体がだるすぎだった。立ちがるのもやっとという状態。横にならないようにしている。今日の一句。

かさぶたを剥がして血を見る卯月かな 宿仮

「卯の花くたし」をかさぶたに見立てて

かさぶたを剥がして卯の花くたしかな 宿仮

今日の一首。

卯の花や
剥がしたくなる
かさぶたに
ひりひり痛む
悪人正機

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?