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シン・短歌レッス63

今日の一句

ユスラウメ。初めて見たような赤い実。食べられるそうである。山桜桃と書く。花だと晩春で実だと夏の季語。山桜桃だと「ゆすら」と読ませることも。

不審者はつまんでみたい山桜桃

人んちの庭にあってもつまみたくなる赤い実。やる気が出ない。

現代俳句(杉田久女)

川名大『現代俳句上』で虚子の次が杉田久女。なんで?と思うのも女性で、女性俳人なら4Tがいるのに、それより杉田久女なのである。なんだろう話題性かな。松本清張『菊枕』や田辺聖子『花衣ぬぐやまつわる』という小説でも有名。

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
朝顔や濁り初めたる市の空
足袋つぐやノラともならず教師妻
紫陽花に秋冷いたる信濃かな
谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ
風に落つ楊貴妃桜房のまゝ

最初田辺聖子作品を検索するときに「花衣ぬぐまつはる」でしたら出てこなかった。「まつはる」は旧仮名遣いで、現代仮名遣いでは「まつわる」だ。花見の席が終わって着物を脱ぐときに絡みつく帯がいろいろあるというのだ。花衣という着物はかさねという。そしてその下にも着る着物があるのだろう。十二単ほどではないにしても、「男は外、女は内」というものをひっくり返したが、そこにまとわりつく女性の性を読んだ句だという。久女の代名詞になる句。

朝顔という清々しい朝の花、それと対置して小倉の工業地帯の濁っていく空を読んだ句だという。言われないと「市」が朝顔市かと思ってしまうが。市井に働く都市生活者の一日が始まるのだった。

「ノラ」はイプセンの『ノラ』である。久女の実生活を詠んだ句で夫は美術のしがない教師だという嘆きよりもその妻に甘んじているという久女のプライドだろうか?高い出自の女と駄目夫の構図は、身分制度が廃止されたからこそ逆にその身分の差を明らかにしたのかもしれない。久女の俳人としての才能を虚子にぶつけていく。そんな久女のプライド高い女として描いたのが松本清張『菊枕』であった。

紫陽花は久女のことだろう。信濃は父と弟が埋葬されている土地で、中七が「秋冷到る」という季語。季重なりだが、秋になっても凛として咲く紫陽花を詠んだ句だという。

九州英彦山を詠んで、帝国風景賞(選者は虚子)に選ばれた。これも久女を代表する一句。「ホトトギス」は夏を代表する鳥で、その声が鋭く山に谺するのである。それは久女の声そのものと言えるのかもしれない。

「楊貴妃桜」といいう桜の句。房のまま地に落ちたというのは、その後の楊貴妃の運命のようでもあり久女転落のようでもある。楊貴妃と並んでしまう女俳人なのである。

久女は虚子にそれほど贔屓にされなかった。それは久女のあまりにも自我の強さに辟易したからだろうか?俳句は自我を消して花鳥諷詠するものだ。しかしそれに託して自我を表出することも出来るのだ。その自我が強すぎて「あららぎ」を破門されてしまう。

虚子が女流俳人として目にかけたのが4Tだった。中村汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女。これは虚子贔屓の4Sの女性版だろう。星野立子は娘だし。そんな4Tとは別にもう一人の久女の俳句と双璧いや表現なら超えているとされるのが竹下しづの女であるという。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)
処女二十歳夏痩がなにピアノ弾け
三井銀行の扉の秋風を衝いて出し
棲めば吾が青葦原の女王にて

しづの女の中には母や妻という「内面」と自立した職業婦人(教師)である「外面」を持つ。久女の女性性にはない母性的な逞しさがあるのだが、それは教育者としての一面である。この句は本当に捨てるのではなく、獅子の親の如くの言いである。それを漢字で表記する大胆さ。しづの女を代表すうる句となっている。

与謝野晶子の本歌取り。

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな  与謝野晶子

晶子のナルシズムを叱咤激励する母の句という。ステージママのような句か?ちょっと違うような。女子のナルシズムを糾弾しているようにも思える。

「三井銀行」というモダニズムの中に颯爽と出てくる一人の女だという。俳句だけだと女というのはわからんがな。銀行強盗かもしれん。

「青葦原の女王にて」が久女の「楊貴妃桜」と対置されるような句だ。これも自己愛を謳歌したという。


「うたの日」

『百人一首』本歌

藤原敏行は在原業平にからかわられるチェリーボーイではないか?そんなチェリーボーイの夢の話の歌だった。よるは「夜」と「寄る」の掛詞。「よくらむ」は「夜暗む」で避けての意味らしい。夢の中でも人目を避けて出て来ないのかと相手に対して嘆いているのだ。

「うたの日」お題。「可愛」(6/1)

夢に見る可愛い人よ人目避けチラ見するのは許しておくれ

こんなもんか?いまいち真剣さがないな。「夢の通い路」を活かしたい。

通学路可愛い人よ隣り合う夢から覚めて乗り越す路線

もうこう言う歌は作りたくはないのだがお題がお題だけに。ラブコメ路線だよな。どんまいかと思ったら♪2つ。まあこんなもんだろう。

通学路可愛い人よ隣り合う夢から覚めてラブコメ路線


在原業平の和歌


業平が斎宮との相聞歌で『伊勢物語 六十九段』に出てくるという。業平の歌もそうだけど斎宮の歌も面白い。セットで読むのがいいだろう。

(斎宮)君や来し我や行きけむ思ほえず夢か現か寝てか覚めてか

斎宮は元の『古今集』では詠み人知らずで、これも業平が作った説で、対義語が使われるのは仏教の説話を模したもので、業平の歌の「心の闇」は煩悩を表したものであるという。そして、それが『伊勢物語』で禁断の恋の相聞歌とされて、『源氏物語』の若紫の巻に描かれる藤壺との密通の場面に投影されることになる。

(光源氏)見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがて紛るる我が身ともなが

『源氏物語 若紫』

『伊勢物語』の斎宮の「寝てか覚めてか」は柴崎友香『寝ても覚めても』になるんだな。


『平成歌合 新古今和歌集百番』

今日は藤原俊成五番と藤原良経五番の十番勝負。あまり知らないのだが、正比古の歌風から推理する。当てることより歌風の特徴を掴むことが大事(言い訳か?)。

(歌合二十三番)
昔思ふ草の庵の夜の雨に涙なそへそ山ほととぎす
人思ふ夜の庵の松の戸を閉じよとばかりにさみだれの音

「山ほととぎす」は聞いたことがあるフレーズだ。左は庵の夜の雨にほととぎすの孤独の声が響いているという意か?
松は待つとの掛詞。そこにさみだれの音は乱れを断ち切るという意味が込めれらているのだろうな。これは正比古のテクニックのような気がする。分かりやすいかな。左俊成で右の勝ち。当たり。「と」の音韻が続くのも未練を表しているとか、ノックの音か?正比古テクニシャンすぎる。『新古今集』の特徴として本歌取り、三句切れ、体言止めがあるという。

(歌合二十四番)
鯨(いさな)追ふ海士(あま)のいはめる伊根の江は家居お奥処(おくが)を浦波洗ふ
立ち帰りまたも来て見む松島や雄島の苫屋波に荒らすな

左難しすぎ「いはめる」の漢字が出せなかった。左は初句切れ右の方が三句切れかな。体言止めはないな。右は俊成でわざとわからない難解歌を作るのは正比古だろう。右の勝ちだな。左は十の言葉のはじめがすべて母音だと。そんなことするから難解歌になるんだ。右は「立ち帰り」と「波」が縁語。

(歌合二十五番)
磯触りの香りのひまに匂ひくる爪木の崎の崖(ほき)の水仙
難波びと蘆火たく屋に宿かりてすずろに袖の潮垂るるかな

崖の水仙は絵的鮮やかなんだが右の地味さも捨てがたい。右は塩作りの情景かな。わびしさを好む俊成と見た。で右の勝ち。水仙の歌は綺麗すぎるかな。当たり。正比古の歌が読めてきたか?

(歌合二十六番)
思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞ降る
わびぬれて空ながむれば虹の橋君が住む辺に渡り入るなり

「わびぬれて」は記憶にあるような。左は「そなた」が曲者だな。右は俊成で勝ちはやっぱ橋姫。右は正比古だった。虹が華やかだと思ったが橋姫伝説に騙された。「そなた」は江戸時代かと思ったが中世でも使われていたのか。『枕草子』でも『源氏物語』にも使われていた。

(歌合二十七番)
なき人の悔し涙か初七日に卯の花くたしさみだれの降る
さみだれは真屋の軒端の雨そそきあまりなるまで濡るる袖かな

左の方が感情が出ているような。わかりやすいのが返って正比古かもしれない。右の方が表現が控えめな気がする。さみだれで乱れているのだから。左はそれ以上の感情を詠んでいる。左は情念的には好きだから勝ちにしようか。右は俊成。

今回は4勝1敗。正比古の歌風をつかみつつあるかな。正比古の歌も嫌いじゃない(勝ちを付けたのもあったし)。

(歌合二十八番)
み吉野は山も霞みて白雪のふりに里は春は来にけり
をちこちに垂(しづ)れの音のとどきて吉野の里に春のことぶれ

まったくわからん。左は平凡な気もするけどそこがいいような。右はテクニシャンの歌だが「垂(しづ)れの音」が「とどろきて」が気になる。「とどろきて」だと情緒がないような。ただ「ことぶれ」はなんか上手い言い方のような気がするのだ。だから「とどろきて」にしたのかもしれない。右の勝ちだが正比古のテクニックのような気がする。当たった。「ふりにし里」は「古りにし里」で吉野の都との掛詞だった。左は視覚に訴える歌で右は聴覚に訴える歌だという。

(歌合二十九番)
さそはれぬ人のためとや残りけむあすより先の花の白雪
賜りし蓋に添はするみこころの雪より清く花より美(くは)し

返しとあるから、返歌なのだろう。左は誘ってくれないと女から手紙が来たのだろうか?そして花の白雪とお世辞を言う。右は自分の心が美しいと言っているのか?左は藤原良経で左の勝ち。左の勝ちは当たったが、相手は女ではなく後鳥羽院だった。意味も逆で良経が花の白雪だった。右も後鳥羽院の心が美しいとお世辞を言っているのだった。

(後鳥羽院)
けふだにも庭を盛りと移る花消えずはありおtも雪かとも見よ

『新古今集 春下』

本歌取りのおさらい
本歌と同じ句がその位置も同じであれば二句まで。句の位置が違えば二句プラス三・四句。また本歌が四季の歌ならば雑歌か恋歌。本歌が雑歌か恋歌ならば四季の歌。「同事」は避ける。あまり意識してなかった。まあ練習だから。

(歌合三十番)
行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影
そびやげる大廈(たいか)ひまに方形(ほうけい)の夜空のありて月渡りゆく

左は武蔵野に行ったときの歌だから武士だったらあるかな。でも藤原良経は貴族っぽいよな。右はお屋敷の歌だから左が良経だけど月影か月渡りか。外れた。右も現代の東京の高層ビルを詠ったものだと。藤原良経の知識を入れておこう。

歌合三十一番
春霞かすみし空のなごりさへけふをかぎりのわかれなりけり
ただよへるなごりの霞もけふまでと別れのはてを空にながむる

良経の特徴は天才的で声調にあるという。和歌界のカンデンスキーという。抽象的な歌が多いそうな。声調だと左だが意味不明なのは右だよな。左は正比古が引っ掛けようとしてのかもしれない。右良経で右の勝ち。左が良経だった。定家の母が亡くなったときに送った歌だという。

(定家の返し)
別れにし身の夕暮れに雲消えてなべての春は恨みはててき

『新古今集・哀傷歌』

(歌合三十二番)
毀(こぼ)たるる浦の仮屋の隙間(さま)に見ゆる沖辺の庭は早や秋の色
人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただの秋の風

秋対決。右の方が悲惨な感じがする。でも絵的には左かな。わからん。カンデンスキーというから絵画的な左が良経。処部は右の方が悲惨な状態なので右の勝ち。違った。正比古は裏を書いてくるな。絵画的なのは、由比ヶ浜の海の家を詠んだものだという。上手いな。左は「関路秋風」という題で詠まれた歌だという。

二勝三敗だった。まあ良経は馴染みがないからな。正比古が上手すぎる。

尾崎放哉の自由律

今日は川名大『現代俳句上』からの尾崎放哉。

心太(ところてん)清水の中にちぢみけり
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
一日物云はず蝶の影さす
氷店がひよいと出来て白波
わかれを云ひて幌おろす白いゆびさき
鳩がなくま昼の屋根が重たい
大空のました帽子かぶらず
鉛筆とがらして小さい生徒
しぐれますと尼僧にあいさつされて居る

放哉なら心太食べていそうだ。これは有季定型の俳句。川名大は放哉の方を自分の心を凝視して、山頭火を句の垂れ流しとしているな。

「つくづく」の方が垂れ流しではないのか?我を詠った境涯俳句だという。「影よ」で切れて、「動かして見る」でふたたび動に転じるのだ。二句切れ。

ただその場の情景を詠んでいるように思えるが。「雨」でも平常心な仕事終わりという。そうかな?

この蝶の句は好きだ。「蝶の影さす」が揺らぎを表していると。

「氷店」は季節ものだからか「ひよい」とはいい表現だと思う。「白波」は海岸なんだろうか?須磨海岸の夏の光景だという。

幌という大八車なのかな。時代的明治大正だし。「白いゆびさき」が苦労のない感じ。これは女を詠んだものだった。放哉はこういう句も作っていたんだ。モダニズムだという。

上句と下句の関連性がないような。でもなんとなく重たい雰囲気か。鳩の鳴き声だもんな。鶯だったら軽い屋根?

山頭火の句に笠を脱ぐ句があったが、あれは放哉を真似たのだと書いてあったな。帽子というのが放哉。

鉛筆はいつの句だろう。子供の句か?放哉は寂しがりやなので子供の句が多いのだそう。子供みたいな性格だったのかもしれぬ。

山頭火もしぐれを詠んだのだが、もっと厳しかった。放哉は尼僧にデレデレしている感じがする。

虚子の特徴は写生句よりも対比させることにあるようだ。そして四季(花鳥諷詠)で包む世界。


本歌取り映画短歌

今日のお題。『ゴダールの探偵』

『百人一首』

難事件みじかきあしの遅さにはパスカルも投げ出す迷宮や

「みじかきあし」は足と葦の掛詞。

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