祖母の話

つい先日、北海道の祖母が亡くなった。

ちょうど緊急事態宣言が出るかも?というニュースが発表されたばかりのことで、東京に住んでいるわたしは家族と話し合って葬儀には出席しないことになった。

祖母はもう長いこと認知症を患ってグループホームにお世話になっており、身内のことも3年ほど前から認識できない状態で、他の疾患も抱えていたので、正直いつ亡くなってもおかしくないな、と覚悟はしていた。でもまさかお見送りもできないとは思わなかったので、正直ショックだ。家族の側で力になることができないのも心苦しい。

気持ちの整理をつけたくて、この記事を書くことにした。とても個人的な話だけれど、誰かに読んでもらえたら心が慰められるように思う。

亡くなった祖母は母方の家系で、北海道で歯科医をしていた家に生まれた。もともとは関西のほうで結構歴史のある家だったが、明治以降北海道に拠点を移したそうだ。

女学校を卒業後、わたしの祖父に当たる人と結婚した。仕事で北海道の各地を回っていた祖父が、祖母の実家の歯科医を訪れたときに一目惚れし、祖母の父も彼を気に入ったので縁談がまとまったそうだ。祖母はよく「こんな人と結婚したくなかった」とぼやいていた。わたしの知っている祖父母は仲がよかったので想像はつかないが、娘時代の祖母はよく知らない男性と結婚させられることを嘆いたこともあったのかも、とわたしは大人になってから思った。

結婚後、二人の娘を産み(二人目がわたしの母)祖父の仕事の都合で本州に引っ越して子供達が高校を卒業するまで過ごしたようだ。その後は北海道に戻り、暮らしていた。このころの祖父母がどのように暮らしていたのかよく知らないことに今思い立った。祖父も亡くなっているので、今度母に訪ねてみようか。

祖母はおしゃれが好きなひとだった。若いころの写真をみるといつもきれいに着物を着付けており、しゃんと背筋を伸ばした姿はとても品がよく見えた。年をとってからもおしゃれを楽しんでいたように思う。いつも化粧品や香水の華やかな香りがした。小学生のころ、遊びに行くとこっそりわたしの爪にマニキュアをうすく塗ってくれて、とてもうれしかった。新しい服を着ていくといつも気づいて褒めてくれた。

祖母はわたしにとても優しくしてくれた。(世の中のおじいちゃんおばあちゃんはたいてい孫に甘いのかも知れないが)小さいころは泊まりに行くと寝る前にお話をしてくれた。わたしが学校のことで悩んでいたとき、他の家族が口々に「がんばれ」という中(それもありがたいのだが)たった一人「大変だけど、絶対終わるからね、でも辛いね」と声をかけてくれたことに、わたしは本当に救われた。

祖母は、もしかすると辛い思いをたくさんしてきた人なのかもしれなかった。実家は厳しかったというし、年の離れた兄のお嫁さんにもいじめられていたらしい。結婚してからも二人の子供を抱えて引っ越しも大変だったろうし、祖父の若い頃はかなり遊び歩いていたらしく(後年とても反省していたが)それも辛かったろうな、と思う。祖母はたまにとても気難しい態度を取ることがあり、母もそれには辟易していたのだが、さまざまな苦労がそうさせたのかもしれない。

認知症を発症し、加えて骨粗鬆症による脊柱圧迫骨折で満足に出歩けなくなった祖母は、グループホームに入所することになった。幸い、家のすぐ近くのホームに入れたため、祖父は毎日会いに通っていた。しばらくして祖父も脳梗塞を起こし、回復したものの麻痺が残ってしまったため、家を引きはらい同グループホーム内の介護付き住宅のような所に入ることになった。その時に祖母の持ち物を整理させてもらい、わたしは数点の宝飾品と着物を譲り受けた。どれも祖母の美意識が感じられる品で、大切にしている。

夫婦揃って同じ施設内で暮らしており、職員の方々の柔軟なご対応のおかげで二人は毎日の食事を一緒にしたり、散歩に出かけたりすることができた。ほんとうに施設の皆さんには感謝してもしきれない。

数年前、祖父の脳梗塞が再発し、三ヶ月ほど入院生活ののち他界した。その後、祖母の認知症が一層ひどくなり、家族のこともわからなくなってしまったので、やっぱりショックだったんだな、とわたしは実感したのだった。

こうして文字に起こしてみると、わたしはあまりにも祖母のことをわかっていなかったのかもしれない。しかし、わたしがこれから年を重ねていく時、祖母のことを思い出し、あの時の祖母はこうだったのかな、と考える時がなんども来るんじゃないかと思っている。そうやって、わたしの中にずっと居てくれるんじゃないだろうか。

おばあちゃん、たくさん愛してくれたのにお見送りできなくてごめんね。

世の中が落ち着いたら、お参りに行きます。


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