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今日も生きにくい。(1)


今度飲みいこー!

このセリフを、まるで会話の終わりの挨拶かのごとく使ってくる人に、また出会った。

その裏側にある意図まで汲み取れるほど、世の中のすべての人が器用とは限らない。
そもそもこの言葉の捉え方は相手との距離感によっても異なるように感じる。

例えばよく話す友達くらいの相手だったら、
そうだね!来月かなー!と返せる。

例えば仲のいい先輩だったら、
本気にしちゃいますよ!焼肉とか!なんて。


だいたいこの手のパターンは、本当にその流れになるか、お互いの予定が合わないか、お互いに社交辞令という暗黙の了解が感じられるかによって方向が決まる。

一番厄介なのが、そんなに仲良くはないけど挨拶はする程度の人。


誰しもいるであろう、そんなに仲良くないけど挨拶はする程度の人。
この類になると、暗黙の了解というものが存在しない。感じられないのだ。

例えば去り際に、例えばすれ違いざまに、はたまたメールやLINE上でのやり取りの中に。


あぁ、悩ましい。


こうも色々と考えてしまう理由は、高校時代の出来事から。

当時、受験生だったわたしは、地元の大学に進学を決めていた。隣のクラスのSちゃんは、同じ科目を選択していたため、卒業の5ヶ月前あたりから放課後一緒に勉強するようになった。
わたしは人付き合いもそこそこに。対してSちゃんは男女問わず、友達がたくさん。明るくサバサバした女の子だった。

Sちゃんは遠く離れた関東へ、わたしは地元に残ることが決まった。
進路が決まった時、Sちゃんが
「向こうに行ってもまた遊ぼうね!」と言ってきたときに、社交辞令として捉えられなかったわたしは、
「いや、遊ばんよ。遠いもん。帰ってこんやん。」と、とても可愛げない言葉を放った。

しかも、なんの悪気もなく。

これを聞いたSちゃんの一瞬怯んだ表情と、凍りついた空気は、なかなかに苦い思い出である。
すかさず空気を察したわたしは、もはや弁解の余地すら残されていないのに、「いや、ごめん、だって遠いから、なかなか会えないから、と思って。それにSちゃん、友達多いもん。」などと御託を並べた。

しかしさすがのSちゃん。社交性を身につけている彼女は、
「いやー、そうだよね!帰って来れんもんね。でも帰ったら遊ぼうってことだよ!」と、言ってくれた(ような気がする)。

10年近く経った今でも、年に一度は近況報告をするSちゃんの、懐の深さたるや。

あのあとどうなったかというと、意外と一年後、Sちゃんの帰省のタイミングですんなり会えた。この10年、それきりであるが。


そんなこんなで、自分も簡単に社交辞令じみた実現しない内容の話は極力しない。
今考えると、こんな風にストレートに相手に言えた自分と、それをうまく吸収してくれたSちゃんは当時、きちんと同じ空間を共有していたのだろう。

話を戻すと、暗黙の了解、これが片方だけにしか存在しないとするなら、その時点で社交辞令は一方通行になって、片方はその後について頭を悩ませるのだ。

なかなか連絡がこない。と、もやもや。

こっちから誘うべき?と、もやもや。

もしかして、あれは社交辞令だったの?
と、あとから気付くときの愚かさ。

ちなみに今回この言葉を送られたわたし、もういい歳なので社交辞令には社交辞令な返事をしたら、意外とその後の約束につながったので、やはり恐ろしい、キラーワード。

煮るのも焼くのも、取り扱い注意。

どちらに転ばせるかは、わたし次第。

とにかく、会話の隙間を埋めるためだけに『今度〇〇しましょう!』と発言するのは、相手を選んで欲しいなぁ。少なくとも、お互いに仲がいいだろう、と確信できないのであればやめてほしい。

なんて、取り留めもないことを脈略もなく書いてみたけど、社交辞令についてとやかく言うこの記事を見つけた人のなかに、わたしにこの言葉を送ってきた相手は絶対いないと確信している。