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後輩書記とセンパイ会計、 救済の豪弓に挑む

 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば天然痘で片目を失明した伊達正宗の看病に当たる人にだってなれただろう。ふみちゃんは小学生時代、古代の日本で伝染病がどう伝承されたかを緻密に調べ、「こどもの健康習慣」の小論文コンクールに提出するほどの上級者だったらしい。ふみちゃんによれば、非常に恐れられたのはウイルス性の天然痘で、強い伝染性を持ち、不治・悪魔の病いとされ、ようやく昭和五十四年に『天然痘ゼロ宣言』が行われたものらしい。
 一方、風邪で弱ってしまった一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの災厄知らずで、数学が得意な理屈屋で、抗菌性が高い眼鏡拭きを新調したけれど、風邪のウイルスには関係なくて診療所のベッドに寝ているところだった。
 十月二十六日は、ふみちゃんいわく『天然痘ゼロ宣言の日』らしいが、僕にとってはただの生徒会合宿の一日だった。場所は伊豆諸島の八丈島だ。で、せっかくの合宿なのに、僕が早々に診療所で寝込んだことを知り、ふみちゃんと女子副会長の英淋さんが見舞いに来てくれた。もしかすると、この二人に眼鏡をかけてない僕の顔を見せるのは初めてかもしれない。二人ともマスクをして、ベッドから少し離れたイスに腰掛けた。
「数井センパイ、しんどいですか?」
 ふみちゃんは僕の体調を案じてくれた。小学生に見えるほどに背が小さく、ふんわりとやわらかい黒髪をしている。今日の髪型は二つのお団子頭だ。
「来る前からちょっと体調悪かったんだ」
 八丈島には昨日フェリーで来た。一日目はその移動だけだったが、僕は民宿に着いた頃から具合が悪くなり、船酔いかと思ったけれど熱が出てきて、朝から宿の近くの診療所で休むことになった。診察結果は風邪だった。
「季節の変わり目は引きやすいもんね」
 英淋さんは、スーパーで買ってきたという三個パックのプリンをテーブルに置いてくれた。英淋さんは留学経験がある一歳年上だが、学年は僕と一緒だ。見舞いと言えば甘い物で、甘い物ならいつでも食べられるらしい。と言うそばから、英淋さんは早速二個を空け、ふみちゃんと自分で食べはじめた。ふみちゃんも遠慮なく小さな口でパクついている。食欲のない僕はそれを静かに眺めていた。
 ところで、なぜ生徒会合宿が八丈島かと言うと、少し理由がある。開架中学校のホームページを作っているデザイン事務所の人と以前会う機会があり、その人が八丈島出身だった。その人から聞いた八丈島に伝わる人攫いの山姥伝説の話はよくわからないうちに済んだのだが、数日後、生徒会室に仕事で来たとき、フェリーの割引チケットをくれたのだ。そして、それに食いついたのは生徒会長の屋城世界さんだった。
 世界さんはすごい名前だが、性別は男だ。走り幅跳びで県大会に行った三年生の陸上部エースであり、島育ちに見えるほど一年中よく日に焼けていた。
 今日、その世界さんと姉の銀河さんはレンタカーで島の旧跡めぐりをしているらしい。運転は大学生の銀河さんだ。銀河さんもすごい名前だが、性別は女性だ。どうやら世界さんが江戸時代に島流しで流れ着いた人の墓地を訪ねて回りたいそうで、英淋さんは恐がって残り、ふみちゃんも付き添うことになり、二人は話し相手が欲しくて僕の見舞いに来たと言う。
 何だかよくわからないが、プリンは食べ終わっていた。
「世界さんは何で流刑にあった人の墓地に行きたいんだろう?」
 僕が何気なくつぶやくと、ふみちゃんはマスクをしながら答えてくれた。
「流人には罪人だけでなく幕府批判をした思想家もいます。世界さん、革命がどうとか言ってました」
 いったい何を知りたいんだ……あの人は。ただ、頭がぼうっとしているので、二人の話を聞くだけで何も考えが浮かばない。ふと、英淋さんと目が合った。
「数井くん、プリン食べる? ここ冷蔵庫ないし、ぬるくなると美味しくないよ」
 いま要らないと言えば、一個残ったプリンを英淋さんが食べてしまいそうな雰囲気だ。全部食べられるか微妙だが、一口二口なら食べたい。そう伝えると、英淋さんがフタを開け、スプーンですくってくれた。
「甘い物は悪くないよね。はい、じゃあ、あーんして」
 えっ? えっ? た、食べさせてくれるの?
 思わずふみちゃんの表情を見ると「おっ」という顔をしている。――「おっ」としか言いようがない顔をしている。もうちょっと慌てるとか……してもいいのに。と、鼻先にスプーンに乗ったぷるぷるのプリンが迫った。食べないとこぼれ落ちそうだ。
「い、いただきます」
 僕はプリンを食べた。英淋さんは満足げな笑みでじっと僕の顔を見入ってくる。
「どう? もう一口欲しい?」
 甘さと冷たさとのどごしが気持ち良くて、僕は素直に頷いた。「あーん」と二回目が来る。英淋さんは家族想いで、弟が病気になった時よく看病しているらしいが、これもそんな感じだろうか。ふみちゃんは「おおっ」としか言いようがない顔つきだ。何かこう、介護体験を見学しているような感じで、少し照れ臭くもあり少し空しくもあった。
「数井くん――私ね、離島の看護師になりたいのよ」
 突然だった。英淋さんは不意にそうつぶやいた。プリンを渡してきて、僕は受け取った。あとは自分で食べて、ということだろうか。僕は食べずに聞き返す。
「離島の……看護師ですか」
「うん、そう。昔ね、離島のお医者さんのドラマがあったじゃない? あれ見てすっごい感動したの。離島には何でもできる看護師さんが必要なんだって思ったんだ」
 そのドラマなら僕も少しだけ見たことがあった。と言っても、きちんと毎回見たわけでなく、雰囲気を知っている程度だ。明るくて優しくて頑張り屋さんのイメージ。確かに英淋さんにはぴったりかもしれない。その英淋さんは、窓の外を見た。昼間の明るい陽射しが真白いカーテンを気持ち良さそうに泳がせている。
「世界には島がいくつあるのかなぁ。私、そのひとつで働くかもしれないよね」
 離島で医療を行う生活。いや、生き方か。特に不自由ない町で暮らしてきた僕には想像ができないことだ。
 途方もなく先のことかもしれないし、高校を卒業し、大学か専門学校を出たらすぐに海外に行ってしまうかもしれない。そしたらそんなに遠い先の話ではない。もちろん、僕たち生徒会のつながりがその頃まで続いているかわからない。青春ドラマみたいに別々の道を歩いているかもしれない。
 なんて妙に感傷的なことを――僕はふみちゃんと英淋さんを見比べながら考えた。
「英淋さん、世界に行きたいんですね」
 ふと、なぜか世界会長の顔が思い浮かんだ。あの人も将来どこへ行くかわからない。けれども、案外どこへも行かないかもしれない。それくらい生徒会室にドンと置かれた会長の机とイスが似合っているのだ。学ランを肩に掛け、風にはためかせ、もっとここから世界に向かって面白いことを起こそう! みたいに単純で無邪気な人にも思えた。
「うん、それで留学してみたの。ホストファミリーが離島のお医者さんだったから」
 留学の理由は初めて聞いた。自分がめざすものに一歩でも近づきたい、という英淋さんの思いが伝わってくる。目的を持って行動できるってすごいな、と素直に感心した。
「どういう体験をしたんですか?」
 すると、英淋さんは両手を胸の前まで上げ、とある見慣れないポーズを取った。
「ダディから――狩猟の弓を教わった」
「はっ?」
 僕は唖然とした。看護師の話じゃないのか。英淋さんは構わず僕の胸元めがけて弓を引くようなポーズを取る。ふみちゃんは四倍盛りで「おおおおっ」という顔になった。それ以外言いようがない。とにかく、英淋さんの眼差しは真剣そのものだ。
「世界中の島には、まだまだ原始的な生活を営んでところもある。船が来れなくなることだってある。だから、一人で生き抜く術を身に付けなさいって教わったの」
 ダディから。
「数井くん聞いて――私、走ってるシカくらいなら撃てるの」
 それはすごい。いや、すごすぎる。海外留学でそんなこと本当に体験するのか? 弓道部とか入ったら相当の腕前なんじゃないか? あいにく開架中学には弓道部がないのが残念だ。
「走る、シカを、撃つ……」
 想像すると壮絶なアクションシーンだった。英淋さんがハンターみたいな迷彩のジャケットを着て、頬に泥を塗り、草むらから颯爽と飛び出して、逃げていくシカの背を追いかける。ビュッと放った一矢が風を切り裂き、跳躍したシカの肉体を見事に射抜く。そして、英淋さんは歓喜に湧く狩猟仲間へガッツポーズを見せ、天の恵みに感謝の祈りを捧げる――
「数井くん、違います。山中を全力疾走はしないよ」
 にこにこと穏やかな笑みだった。
 診療所の外でクラクションが鳴った。屋城姉弟が流人の墓地の巡礼を終え、二人を迎えに来たようだ。英淋さんは嬉しそうに立ち上がり、僕に励ましの言葉をかけて部屋を後にした。一方、ふみちゃんはトトトッと僕のそばに来て、不意にきゅっと手を握ってくれた。プリンを持った手を上から。温かかった。
「ふ、ふみちゃん、あんまり近寄るとうつるよ」
 頭がぼんやりしているので、何だか焦点が定まらない。
「数井センパイ、違います。病いは気から、治りも気から。早く遊びたいって思ったら、すぐ治るはずですよ。弱ってちゃダメです」
「ごめん、そうだね」
 せっかく合宿なのにお見舞いとかつまらない思いをさせて申し訳ないと思う。
「数井センパイ、明日は大丈夫だよね」
「もちろん」
 僕はしっかり頷き、満足げに病室を駆け出していくふみちゃんの後ろ姿を見送った。

 そんなふうに、僕はふみちゃんにかっこつけて約束したものの、ずっと体調は良くならないまま、診療所のベッドでうつらうつらとしていた。海岸の見える丘に立った建物で、窓の外には自然のままの小さな森があり、赤い柄物の服を着て菓子を食べている子どもを連れた老人が立っていた。
 あれは何だろうか。
 前に、八丈島生まれの人から人攫いの老婆の伝説を聞いたわけだが、そこにいる老人はおじいさんのように見える。赤い着物の子どもは血色が悪く、元気がなかった。というより、二人は動かなかった。もう夕陽が島の反対の海岸線に沈む頃みたいだ。診療所の建物から伸びた長い影が、小さな森の老人と子どもに、いや――何かその後ろには動物もいるようだ。真っ白いウサギ。牛柄の白っぽい犬。黒い大きなツキノワグマ。フクロウというのか、それともミミズク? それと……赤い大きなダルマ人間。真っ赤な布で全身を包み、お面でもしているのだろうか。二本の足が生えていた。
 ふみちゃん。
 ふみちゃんがそばにいて欲しかった。たぶん僕は、森の中に何か、老人や子どもや動物たちを超えたものを感じていた。僕が――見えるはずがないのに。今まで一度だって、こんなことはないのに。いるって答えてくれるのでも、いないって答えるのでも構わない。
 何でもいいから、僕は今、ふみちゃんの言葉が欲しい。
 たとえ理解できない雑な説明であっても。
 枕元に携帯があった。光って震えていた。あ、あ、ああ。着信なのか。僕は手を伸ばして取る。体が熱で軋んでうまく動かない。
『数井くん』
 英淋さんの声だった。走っているみたいで息が弾んでいた。
「どうしたんですか?」
『今から、弓を引きに行きます』
 それだけ言って電話が切れた。
 こんなタイミングだから、ふみちゃんから電話が来たのかと思ったが、履歴に残った着信は、間違いなく英淋さんだった。
 弓を引きに来ると言った。
 僕は窓の外をまた確かめる。白髪の老人が懇願するように頭を下げ、横にいる赤い着物の子どもをかばっている様子だった。後ろの鳥が鳴いている。フクロウかミミズクの鳴き声だ。ああいう鳥は夜行性でなかったか。ウサギも犬もクマも寄り集まって、あと、赤いダルマ人間が意味もなく上下左右に揺れていた。
 何分経っただろうか。
 窓の外で、ザクザクザクッと草を踏む音がして、長い弓を携えた人が踊り出た。お姫様のような白いブラウスと短いキュロットパンツ、海風で爽やかに弾む長い髪に、見慣れたバラの髪飾り。貴族の狩りのように華麗に現れたのは、間違いなく英淋さんだ。
 看護志望の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば見守るしかない。
 老人と子どもと動物たちはざわざわと固まり、忙しく伸びたり縮んだりした。英淋さんはここぞという場所に止まると、ぐっと足を踏ん張り、何の迷いもなく矢を放った。
 矢を向けられたものたちが、普通なら僕には見えないものだとわかっていたはずだった。それでも矢を撃たれた瞬間には心臓がつぶれそうになるほどの動揺があった。
 いま、何が撃たれたのか。誰が撃ったのか。
 それは明白だ。
「――数井センパイ、ごはんですよ」
 ひゃっ!! と振り返ったら病室の入口にふみちゃんが立っていた。
「ごっ、ごはん?!」
「はい、宿で用意ができました。帰りましょ?」
 ちょっと、ちょっと待ってくれ! 僕は慌てて窓の外を見る。英淋さんが何だかすごい状況だった。英淋さんが弓を構えて森へ飛び込んだ。老人が子どもをかばいながら、赤いダルマ人間をまるで手下みたいに指図し、小さな森の中を逃げ回っている。赤いダルマは地を這うように素早く動き、英淋さんの射撃を邪魔している。ウサギは、犬は、ツキノワグマも、赤ダルマの奮戦に触発されて、一転反撃に出ようと飛びかかる。
「英淋さんが危ないっ!!」
 僕はベッドから下りようとしたが、靴が見つからない。どこだっ!
「……数井センパイ、どうしたんですか?」
 どうしたって、ふみちゃんは窓の外の攻防が見えていないのか?! 看護志望の女の子が戦って、理系の僕が見えて、文系の女の子が見えない何かがあるのだろうか。あってもなくても見守るしかない!
 その瞬間、英淋さんが鋭く放った矢が赤ダルマを射抜き、空高く跳ねあげた。闘牛士のマントが翻るように、中身のない真っ赤な布が、森の奥深くに舞った。動物たちは赤い布が地面に落ちると同時に消えていた。残るは、老人と子どもだけ。

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