畏敬の念と脳と
圧倒的な自然の雄大さ。
その迫力に、言葉が詰まり、恐れにも似た感覚とともに、
言葉にならない感動を味わったりする。
優れた芸術や極限の世界を目の当たりにし、
我々は、この畏敬の念と呼ばれる感情を引き出すことができる。
きっと脳では、
恐怖への反応に伴う扁桃体。
それでもその場面を脳に刻もうとするドーパミン。
激しくざわついているはず。
一方で、
ある人が、心振るわせ、感動をしていても、
ある人にとっては、何者でもないこともある。
雄大な大自然を目の前に、
畏敬の念どころか、興味も示さず、
退屈にすら感じてしまうかもしれない。
自然に身を委ねるくらいなら、スマホ見ていたい。
そんな人も増えているのかもしれない。
しかし、この畏敬の念を抱く、いや、抱ける脳は、
もしかすると、我々の幸せ、Well-beingにも寄与しているかもしれない。
そんなことが示されているのが、以下の論文。
経験、体験することにオープンな人、外交的な人は、畏敬の念を抱く傾向、性質と関係がありそうで、その性質は主観的なWell-beingと関係がありそうなことが示されている。
もちろん、一面的な調査であるから、畏敬の念を抱きやすいからと言って、全て幸せになるということではないだろう。そして完全に、環境にオープンであったり、外交的であれば、畏敬の念を抱きやすいというわけでもないだろう。
しかし、
環境にオープンであることは、脳が環境にオープンであることで自己にポジティブに繋がった体験をしている確率は高く、ますます環境にオープンになりやすく、そして環境のポジティブな要素を取り込もうとする反応も強く働きやすくなり、畏敬の念のような感情も引き起こされやすくなるだろう。
同様に、対人においてオープンであり、外交的である人は、対人関係においてポジティブな経験が多く、ますます対人関係に積極的になりやすいであろう。そうすれば、対人関係においてよりポジティブな側面を取り込もうとするからこそ、そのような脳の使い方は、自然だけでなく、人の創作物や作品などから畏敬の念のようなものを感じやすくもなるかもしれない。
いずれにせよ、
世界にオープンであること、その違いなどに敵対反応するでなく、その違いを、ときに面白がれたり、感動できたり、ちょっと極端かもわからないけれど、畏敬の念を覚えられる、ささやかなことかもしれないけれど、心の動きを楽しめる、そんな人は、幸せになりやすいのかもしれない。
そういえば、幸せについて調査した際に、100近い因子の中で、最も幸せとの相関性が高かったものに、「何気ない日常に幸せを感じることができる」ということがあった。
日常に幸せ?と思う人もいるかもしれない。でも、そんなささやかな、当たり前のようにある日常、見出しづらい幸せを見つけることができる人は、きっと幸せになりやすいだろう。幸せの表面積が広い。
今は、わかりやすく楽しい、気持ちいい、そんなものが溢れかえっている。それもそれで素敵だけれど、時に、このささやかで、取りこぼしやすい、わかりにくいんだけど、その中にある美やポジティブを見出すこともきっと大切なのだろう。
わかりやすい報酬系を刺激するゲームや動画もいいけれど、ちょっと脳にとってわかりにくいけど豊かにしてくれる、自然やアート、そして日常にポジティブを見出す、そんなことも大切なのかもしれない。
そんなことを改めて、感じ。世界のいろんなことに心震わせて、味わっていきたいなぁと感じました。
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