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鬼の爪

私は、自分の足の親指の爪を「鬼の爪」と呼んでいる。正しい病名は「爪甲鉤彎症(そうこうこうわんしょう)」と言うらしい。

いつからか爪の様子が何となくおかしいと気づいていたのに、恐怖心から見て見ぬふりをし、放置していた。そして夏に仲間と海に行く予定が入り、いよいよ向き合わなくてはならなくなった。

「アレェ、なんか形がおかしいよなぁ」と、とぼけたふりをしてまじまじと自分の爪を見たのだが、もうその時にはナウシカに出てくる王蟲(オーム)が親指に乗っかってる感じになっていた。

ふむ、これはいかん。

特に痛みも何もなく、普段はほぼスニーカー生活のため、厚みのある王蟲的な爪であっても支障はなかったが、海で素足を晒すとなれば別問題だ。ペディキュアを塗って急場を凌げないものかと考えたが、カラフルな王蟲がそこに誕生するだけだ。モスグリーンにしようものなら完璧に仕上がる。

改めて大変な事になっていると気づいたが最後、いても立ってもいられなくなった。急いで病院に行かねばと、会社から通える距離の皮膚科を探した。

自分なりにネットで調べてみると、「爪水虫」がどうやら怪しい線だ。

その日は早めに仕事を切り上げ、病院に向かった。するとそこには入るのを躊躇するほどの、雑居感漂うビルが建っていた。ガタガタと揺れるエレベーターに乗り、薄暗いフロアに降りるとすぐ目の前が皮膚科の入り口だ。中へ入り、右手にある受付を見て時が止まった。

平均年齢65歳、最年長推定85歳といった看護師と思しき女性が5人、所狭しと重なるように座っていた。そして見渡す限り患者は私1人。

暗く埃っぽい生命力の失われた待合室に圧倒され、急激に不安が襲ってきた。できればすぐさま帰りたいが、推定85歳の女性ともうバチバチに目が合っているから逃げられない。

「あの、初めてなのですが…」「こんにちわ。保険証をお願いします、それからこちらにご記入ください」1番若そうな女性が、受付の手続きを進める。それ以外の女性たちはずっと無言で、私の一挙一同を見ていた。

すると推定年齢85歳の女性が「お近くにお住まいなの?」と上品な口調で話しかけてきた。何故かこの方だけ医療服ではなく私服だ。オーナーか何かだろうか。

「会社が近いんです」「あらあ、そう。少しあちらでお待ちくださいね」

私は待合室の埃っぽいソファーに腰をかけた。前回ここに人間が座ったのはいつだろう。

「ではあちらのお部屋にお入りください、先生がお待ちです」

もはやお待ちして下さっている先生に会うのが怖い。恐々と扉を開けると、そこには推定年齢85歳のおじいちゃん先生が座っていた。

平均年齢が更に高まった。

先生の後ろの窓から強烈な午後の光が差して埃に反射し、キラキラとまるで後光のようだ。病室はやけに広く、昭和の小学校の理科室を思わせる。ホルマリン漬けや人体模型があっても何ら違和感がかない。

少し奥の大きなテーブルには、年季の入った顕微鏡が置かれていた。

「どうそおかけください。今日はどうされましたか」「親指の爪がうまく伸びていないようで…」「では靴下を脱いでここに足を乗せてもらえますか」

目の前に置かれた小さな台に素足を乗せた。先生はブルブルと震える手で私の足の親指を掴み、まじまじと見ながら「んむんむ」と小さく唸っている。そしておもむろに、アルミホイルのようなものを親指の下に置き、鉄のヤスリのようなもので私の爪をガーリガーリと削り始めた。

「爪水虫かも知れんから、顕微鏡で見てみます」

それ先に言うて欲しい。

急に爪削られて怖いし、先生の手が常にブルブル震えてるから恐怖5倍増し。さらに今なら病室の雰囲気で恐怖2倍増し!

先生はヨロヨロと立ち上がって、アルミホイルを手にしたまま顕微鏡のテーブルへ向かった。今にも倒れそうで心配だが病人は私だ。

「んむんむんむ」

静寂に包まれた病室で、顕微鏡を覗き込む先生の唸り声だけが響く。私はどうか早く爪水虫と診断されますようにと願っていた。

「あのねぇ、爪水虫違うねぇ。菌がいないねぇ」

先生が顕微鏡から顔を上げて言った。

落胆した。こんなに爪水虫であって欲しいと願った事があっただろうか。

「そうなると、こんな症例見たことないねぇ」そう言いながら巨大な医療書を机の引き出しからよっこいしょと取り出し、パラパラとめくり始めた。

「分からんねぇ。あのねぇ、今、すぐには分からないから、これから調べてね、ちょっとね、研究してみます。ですからね、1週間ほど時間ください」

無理だ待てない。おじいちゃん先生には申し訳ないが、1週間後に病名が判明している気がしない。とりあえず、わかりましたありがとうございましたとお礼を言い、病室を出た。

受付に戻ると、最年長女性が口を開いた。「aotenさん、これから先生は、病名について時間をかけてお調べになられます。大体1週間ほどお時間いただくと思います。次のご予約いつにされますか?」

「すみません、また予定については追ってお電話します」

そう言って診察料を払い、5人の視線を振り払ってすぐに病院を出た。

まるで白昼夢のような奇妙な時間だった。

一体何やったんや…。

強烈な虚無感に襲われた。

しかしここで終わらせるわけにはいかない。そこから近い距離にある皮膚科を調べ、飛び込んだ。大通りに面した清潔感のある病院で、先生も看護師さんも若々しい。

「ちょっと爪を切らせてもらって、水虫かどうか調べますね」と言われ、さっき調べましたとは言えなかった。もちろんデジャヴでもない。

「水虫ではなく、これは「爪甲鉤彎症」という病気ですね。爪水虫とよく似てるので間違われやすいんですけど」

病名すぐわかった、その場で判明した。

「珍しい病気でしょうか…」「いえいえ、結構いらっしゃいますよ」

結構いらっしゃるらしいよ、おじいちゃん先生。

それから治療法について丁寧に説明を受け、薬をもらった。

人によっては時間をかけての治療が必要で、夏までの完治は難しかった。友人に事情を説明して爪を見せたところ「鬼の爪やん」と言われたことから、それ以来鬼の爪と呼んでいる。もちろん誰も鬼の爪を見た事はない。

そして今もまだ、鬼の爪は健在だ。徐々に治りつつあるが一進一退だ。


あれからふと思う。

あのおじいちゃん先生は病名にたどり着いたのだろうか。私のために調べてくれていたのだろうか。

そう考えると、胸が少し痛むのだ。


#日記 , #エッセイ , #爪の病気 , #ナウシカ ,

#王蟲 , #爪甲鉤彎症


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