令和最新版山月記みたいのをみた

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/finto__/n/n10f09277436d

学部まで同じの後輩だった。

ここには、卑屈で因循な人間にも居場所があるように思えた。おれはずっと他者の評価をコントロールできないことが怖かった。でもSNSでは、見せたい自分だけを切り取り、編集し、ある程度、他者から見られる範囲を制限することができた。絵を載せたら褒めてくれる人がいる。みすぼらしい自分の一面を受け入れてくれる人がいる。むしろここではそれが望まれている。自虐による承認は、心地がよかった。現実感覚は日に日に希薄になり、ネットの世界に重心を預けるようになっていった。Twitterにはおれと同じように、自分で自分を蔑みながら、その目でまた他人を蔑むということが習癖になっている人が数多くいたが、だんだんと、その中にも馴染めないと感じることが増えていった。時に、暗い部屋で彼らのツイートを眺めては、繊細であることを殊更にアピールする繊細な人間が一体どこにいるんだと、心中で毒づいてみたりもした。 自分の不甲斐なさや能力のなさを、キッパリと時代のせい、環境のせい、親のせいにできるほど、おれは鈍感ではなかった

令和最新版山月記ぽくてよい。

尊大な繊細チンピラと臆病な承認欲

 大学4年生になっても、就職活動に乗り出すことはなかった。というより、足を踏み出すことができなかった。ゼミにも入っていなかったから、情報を共有する友人も、相談できる相手もいなかった。助けて欲しい、教えて欲しい、と素直に口に出すだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。

わしもノンゼミだったが、まあなんか大学がやってくれる合同説明会やら、リクナビさんやらでカンを掴みつつ、サークルのパイセンにエントリーシート見てもらってサクサク遊んでたな。

あの楽しさが今でもツイツイ転職しちゃう原因かもしれん。グループディスカッションとか楽しかったしな。

隙自してしまった。

やくにもたたない思ったこと

その穴を埋めるように、たくさん本を読んで、たくさん映画を観た。そうしたら豊かな人間になれる気がした。逃避の手段だとしても、黙って勉強をしていれば褒めてもらえたから、受験もそれなりには頑張った。地域で名の知れた高校に進学して、世間で賢いと言われる大学にも入った。でも違う。これは全然違う。損なわれたものを、損なわれたと感じているものを、同じ形の違う何かで埋め立てることは、どうやっても適わないのだ。

なろうで小説でも書けばよろしい気がしてならぬ。よみびとのなれのはてだし。
noteでこれだけのイイネを得られる読ませる文を書くのだから、ライターになりたいのですが〜とでもいえばよいだろうし、そうしたくもないなら、投げ銭をもらえるお話を書けば良さそうにも思う。

人と触れたくないがカラダは使えるなら品出しでも良い気がする。大学はアクセサリーなので、別に隠しとけば良い。

ホンコレ 

しかも慶應の場合にはほとんど二科目頑張るだけで、「大学生」というモラトリアムのパスポートが手に入って、あまつさえ世間では「高学歴」として扱れるというのは、なんとも不思議な感じである。

ホンコレ。歴史好きで小説、エッセイ読みとかになると実質英語一課目になる。ただその英語がエグいが‥

同志社とかMARCHの英語とは格が違うんよな‥アレ

カッコよく言えばより学際的、言葉を選ばずに言えば自由でラクそうだったからだ。単位の修得条件も、進級条件も甘い。仕事の両立が難しい芸能人が多いのもそのためだ

3年でフル単したからな俺も‥。あの学部まじで暇。

生まれついてのお金持ちは、ひたすらに感じがいい。恵まれた人間をやっかむ私たちとは比べ物にならないほど、人格者が多い。基本的に、「性格の良さ」は容姿に正比例するというのと同じだ。だから理不尽で、なおさら悔しいのだ。

蔭山ゼミの話を聞くとホンコレだったなあ

思うことそのに

だいがくせいのころにもどりてえ!!!!!!あのよねんが人生でいちばんたのしかった!

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