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シン・エヴァンゲリオンを私小説として読み解いた感想。ネタバレあり。監督の「エンタメを目指す」という綺麗事の結末はエンタメのない私小説で、EOEと同じアニメ卒業しろよ。

シン・エヴァンゲリオンを公開初日3/8に見た。感想・批評を今更書く。
ネタバレあり。肯定していない。批判主体。物語より監督の私小説として読み解く。

前提として

新劇エヴァンゲリヲン序は2007に公開された。その時公開された意気込みは下にある「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」だ。
これは庵野監督の建前だったと推測する。
人の言葉はいくらでも嘘がつける。真実に近づく手がかりは行動だけだ。

まず所信表明

https://eva-fan.com/blog-entry-26.html

我々は再び、何を作ろうとしているのか? 「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。 自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い。 アニメーション映像が持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。 疲弊する閉塞感を打破したいという願い。 現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。 今一度、これらの願いを具現化したいという願い。 そのために今、我々が出来るベストな方法がエヴァンゲリオン再映画化でした。 10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。 エヴァはもう古い、 とも感じます。 しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。 閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。 本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。 現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え、再びこのタイトル作品に触れることを決心しました。 映像制作者として、改めて気分を一新した現代版のエヴァンゲリオン世界を構築する。 このために古巣ガイナックスではなく自身で製作会社と制作スタジオを立ち上げ、初心からの再出発としました。 幸いにも旧作からのスタッフ、新たに参入してくれるスタッフと素晴らしい面々が集結しつつあります。 旧作以上の作品を作っている実感がわいてきます。 「エヴァ」はくり返しの物語です。 主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。 わずかでも前に進もうとする、意思の話です。 曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。 同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。 最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。 当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、 誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。 2007年初秋を、御期待下さい。 原作/総監督 庵野秀明 2006 09/28 晴れの日に、鎌倉にて

当時の庵野監督はどういう立場か。

TVアニメカレカノを途中で降板

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E6%B0%8F%E5%BD%BC%E5%A5%B3%E3%81%AE%E4%BA%8B%E6%83%85#%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E9%99%8D%E6%9D%BF%E5%8A%87

庵野監督はこの後TVアニメに監督として携わっていない。

エヴァ後実写に進出するがラブアンドポップ・式日がハズレ。興行収入的には少なくともハズレ。

実写キューティーハニーは倖田來未の歌は売れたが、映画は売れず。制作会社が倒産するほど。

映画興行成績は失敗に終わり[1]、制作会社のトワーニは倒産[1]。本作が、トワーニの製作する映画としては最後の作品となった。原作者である永井豪は、本作について「ハニーのピュアな部分に焦点をあてることで、庵野さんオリジナルのハニーになっている」と評価している。 オープニングタイトルのアニメーションも高く評価され、後のアニメ『Re:キューティーハニー』の制作に繋がった。

TVアニメはだめ。実写は完全に終わった人、制作会社を潰した人になった。

そういう立場に追い込まれた状況だったことを念頭に置くと。


10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。 エヴァはもう古い、 とも感じます。 しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

あんな続編作れない落ちにしたエヴァに頼るしかなかっただけと見るのが、妥当ではないか。そう考えるのです。

また

映像制作者として、改めて気分を一新した現代版のエヴァンゲリオン世界を構築する。 このために古巣ガイナックスではなく自身で製作会社と制作スタジオを立ち上げ、初心からの再出発としました。

スタジオ立ち上げの理由はお金の問題でした。ガイナックスの放漫経営が理由だそうです。この理由も建前です。

https://diamond.jp/articles/-/224881?page=4

一番の理由は製作費を管理し、スタッフ、社員への福利厚生や、作品が当たった時の功労者への還元などをきちんと実行したかったからです。そのために自分自身の考えを直接反映し責任を持てる新たな会社として「株式会社カラー」を立ち上げました。

本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます

新劇は2007年公開で2021年に落ちをつけました。

2006年9月9日発売の『月刊ニュータイプ』2006年10月号で『エヴァンゲリオン新劇場版 REBUILD OF EVANGELION(仮題)』の制作が発表された。この時点では後編(本作)および完結編は2008年初夏の公開、同時上映で各45分とされた。

このスケジュールなら当時の中高生はアニメ離れしなかったかもしれないですが。

中高生が社会人になるほどの時間をかけました。

新劇がエンタメといえたのは破まででした。Qもシン・エヴァンゲリオンも、衒学的なセリフが飛び交い、突然時代が飛び、分かる人にだけ分かるような雰囲気を出したもともとの本放送、旧劇エヴァに戻りました。

Qを見た当時友人が頭を抱えて監督エンタメやるんじゃなかったのか?と言っていたのに対して、俺はいつものエヴァだよと笑ってたのをよく覚えている。

シン・エヴァンゲリオン公開当日の映画館でもよくわからんかったわという声が聞こえてきたのも旧劇と同じでした。

シン・エヴァンゲリオンは庵野監督の私小説で、庵野監督に対する知識がないと意味がわからないことばかりでした。

ちなみに庵野監督は旧劇公開後こういってました。

 だがそれは、同時にある種の呪縛としても重くのしかかった。テレビ放送終了後まもない1996年7月号の『アニメージュ』で、宮村優子は対談相手の庵野秀明の「アニメファンの依存、偽物の幸せに水をかけた」という趣旨の発言に対し、「作り手としてそれはするべきではない」という意味の反論をしている(当時すでにカリスマ的監督だった庵野秀明に対して、新人の身で平然とそう言ってのけるような所も彼女は実に「アスカ的」だったのだ)。

アニメファンをドン引きさせたくて作った作品だったと思うし、実際監督も意図していたということです。そこからなぜ中高生向けエンタメやろうと思うようになるのか。実写でポシャりTVアニメでやらかした背景、ガイナとの縁切りから考えれば、単純にこれしか金を集められる企画がなかったのでしょう。
中高生向けエンタメというのも建前にしか思えません。

https://bunshun.jp/articles/-/45366?page=4


エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、 誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。

上述の通り誰もが楽しめるエンタメではなかったと思います。Q,シン・エヴァンゲリオンは。

誰もが楽しめない庵野監督の私小説、シン・エヴァンゲリオンの感想とネタバレについて

流石に2ヶ月経ってるので間違いだらけかもしれんな・・・しかし見返す気にもなれん。
以下ネタバレ感想

パリのサードインパクトからの解放、マリ活躍パート。科学の力で守られる日常→原発除染解体、防潮堤。地震の影響だろうな。

シンジアスカレイの放浪をケンスケが回収。トウジとヒカリとヒカリの子供と親父と同居。トウジは医者になり社会人となっている。
農作業やら村での暮らし子育てパート。シンジのウジウジパート。芸がない。→エヴァに乗ることしかできないシンジ=アニメーターしかできない監督。宇部高校(山口県3位の進学校)のみんなは社会にきちんと出てアニメ=エヴァを卒業して働いて家族と暮らして。それに引き換えシンジ=監督は子供の時のままアニメを・・・という暗喩として読むべきだろう。

農村パート→たたらば的ななにか。

アヤナミが外で長く生きられなくて死ぬ→アニメの外で生きられない二次元キャラ

ケンスケがおとなになって、親父と話せよと言い出す。→伏線というかなんというか。

シンジはヴィレに帰る。ネルフがなんかするから北極・カルガリーベースいくぞ!ヤマト作戦。→天一号作戦だな。片道特攻沖縄に散る。

カルガリーベースにマリ・アスカ特攻。フォースインパクトに必要な13号機発見。アスカ退場。唐突にクローン感出てくる。名前変わった伏線がここで。冬月は旧劇で戦略自衛隊に苦戦したのに、新劇だとえらく強くなった。

シンジが前向きになってゲンドウのやったことに始末をつけると言い出し責任感ができた。

ゲンドウはまたリツコに撃たれるが使徒もどきになっててへーき。漫画と一緒。

13号機に乗ったゲンドウはマイナス宇宙=ディラックの海へ。ミサト特攻のおかげでシンジも入った。

やっと主人公バトルと思ったら、いつものこれはあにめで~す。パート。
エヴァ初号機と13号機が脈絡ない市街地でビルを壊して、ミサトさん部屋で戦うわ、その壁壊すとアニメスタジオだったり綾波部屋だったり。
→ここで俺はああ終わったなこの作品と確信した。どこがエンタメなんじゃ。いつものこれはアニメ!現実じゃない!アピールはもう1997で終わりにしろ。繰り返しで飽きたわ。

シンジとゲンドウが戦ってたらいきなり話そう、話し合おうとか言い出す。→ドラえもんのムテキマンとアクマーンかよ。

http://halekaa.blog64.fc2.com/blog-entry-16.html?sp

画像1

いつもどおり電車でお話。

エヴァンゲリオンイマジナリー=エヴァはアニメだから。現実じゃないぞ。しつこいよほんと。

ゴルゴダプロジェクト=コードギアスの階段。何でも叶う神の遺産。新しくもなんともないんですがそれは・・

ゲンドウの過去話。
ゲンドウ「人と話すの嫌い!友達もおじさんちでなにかするのもいや!俺は孤独が好き!本が好き!音楽も!引きこもりたい!」→監督

ユイにあった。ユイ最高!あれ、死んだ!初めて孤独になった!→強がらないからもう和解しかないやんけ。

ゲンドウ「子供おると不安や!」ポイ捨てしたけどなんか和解する気になった。電車でおいてかれるシンジをゲンドウが抱きしめる。→監督がQのあとだかに壊れた~と言ってたら宮崎駿=ゲンドウがお前大変そうやね声優やれやと手を差し伸べた。

ゲンドウ「シンジの中にユイがいたのか」→手垢が…

ゴルゴダプロジェクトで現実改変できる槍(世界を革命する力かなにか?)は使い切ってたらしく、詰むところだがミサトさんの命とヴンダーと引換えに現実改変できる槍ゲット。ミサトさん死亡。→まあいいんだけど、ミサトさん、子供をトウジやケンスケのところにほったらかしにしてるの、ミサトさんのパパと同じで全く進歩してないよね。ネグレクトの連鎖やん。

現実改変して、ゲンドウ、アスカ、綾波、すべてのエヴァにバイバイ。ちなみにアスカは母親との確執というかトラウマ剥ぎ取られてクローンに。一山いくらにされています。→宮村優子とのあれでしょうなあ。

いつものように海で一人黄昏、原画、色指定、背景なくすなどの演出。これはアニメ!お前ら現実を見ろ!というアピール→だからそれはエンタメ?中高生がそれをエンタメと認識すると思うの?

黄昏れてるとマリが脈絡なく飛んできて、10,11,12号機も消してね!で終わり~。→ほとんどシンジと接点なかったマリがなんでのこらんといかんのよ。→私小説としてみればわかるけどさ。

エヴァのない現実パート。前フリにアニメ26話学園パートも流す念の入れよう。実家の山口県宇部新川駅。マリと待ち合わせ。声変わりしたシンジ=監督は、監督十八番の電車に乗らず(アニメを卒業して)、実写背景にした山口県宇部市に(=実写で成功した俺)胸のでかいいい女を連れ帰り、故郷に錦を飾るのでした。ドローン空撮で工場もバッチリとって趣味を満足。

ここは幕末太陽傳のオマージュ

また、アニメーター・映画監督の庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』制作中に「『幕末太陽傳』をやりたかった」と各媒体でたびたび語っている。なお、テレビ版最終回で実写のスチル映像が紛れ込んだり、「もう一つの可能性」と称してまったく雰囲気の異なる学園ラブコメになりその最後がアフレコ台本で終わるのも、『幕末太陽傳』のラスト、そして川島の積極的逃避哲学から庵野が影響を受けた結果であるという。

庵野監督は結局逃げたわけだよアニメから。もう実写監督様だからね。

幻のラストシーン
映画の最後は、こはるに熱を上げるしつこい旦那を煙に巻こうとした佐平次が、千葉からやって来た旦那の杢兵衛を海蔵寺の墓場に連れて行き、出鱈目な墓を指してそれをこはるの墓であると騙すというものである。結核を暗示する咳をし、顔色の悪い佐平次に杢兵衛は「(墓石を偽ると)地獄に落ちねばなんねえぞ」と言い、佐平次の体調不良を天罰だと罵る。すると佐平次は「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ。」と捨て台詞を吐き、海沿いの道をどこまでも走って逃げていくというものである。
このラストシーンは、脚本段階では、佐平次は海沿いの道ではなく、杢兵衛に背中を向けて走り始めると墓場のセットが組まれているスタジオを突き抜け、更にスタジオの扉を開けて現代(昭和32年)の街並みをどこまでも走り去っていくものであった。佐平次が走り去っていく街並みはいつかタイトルバックに登場した北品川の風景になり、その至るところに映画の登場人物たちが現代の格好をして佇み、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去っていくというものだったという(本編でも、佐平次のみ西洋式懐中時計を修繕する能力を有しており、これが時間の超越を暗示する伏線であった可能性が有る)。これは川島がかねてから抱いていた逃避願望や、それとは相反する形での佐平次に託した力強さが、時代を突き抜けていくというダイナミックなシーンになるはずだったが、現場のスタッフ、キャストからもあまりに斬新すぎると反対の声が飛び出した。川島が自らの理想像とまで見なしていた佐平次役のフランキー堺まで反対に回り、結局川島は現場の声に従わざるを得なかった。但し、フランキー堺は後に「あのとき監督に賛成しておくべきだった」と語っている。

感想その1率直な感想

EOEやり直すのに15年かけて、当時の若者にもうお前らもアニメを卒業して、胸のでかいいい女の嫁さん=安野モヨコを連れて故郷に錦を飾れよ?っていうのがエンタメなんか?
確かに繰り返してるけどさ1997と同じことを。同じように映画館でカップルが、よくわからなかったね~と話してたよ。

版権整理と、実写の負債(金・イメージ)返済、出資、信頼回復という目的が先で、エヴァは出汁に過ぎなかった。だから序は金と信用のため徹底的にリマスターして、誰でも分かるエンタメにしたのではないかなあ。

マリ=安野モヨコ

ピンクだしね。

感想その2すこし衒学的な。

本放送当時の90年代ポストモダンから、大きい物語に分断される現在。庵野監督は私小説的な個を叫べるくらい成長したとも言える。かもしれない。よくわからない。

ただもののけのたたらばと森の話もそうだけどさあ。
マックス・ウェーバーの日々の仕事に帰れじゃないけどさ。
なけなしの金と時間を費やして日常から離脱して、笑いや悲しみ非日常味わいに来てる客に「アニメなんか見てんなよ、現実に帰れ」ってさあ。
おもちゃを買いに来た客からしたらふざけんなとしか言えんわ。

わしも結婚して子供おるけど、エヴァという祝祭を求めて来たら、平日の日常大事だろ?という説教くらいに金払いにいったようなもんやんけ。

それにトウジとヒカリの父親とシンジが同居するパート。

高校でアニメの話盛り上がった友達の中に医者かエリートリーマンいて、彼が嫁、子供、嫁の父と同居してるとこに遊びに行った庵野監督。と見ると。
シンジが飯食わなかったのは庵野監督が異常な偏食で出された飯食えなかったんだろなとか、仕事の話されてもアニメ書いてるなんて言えなかったんだろなとか。思えて笑えるけどさあ。

エンタメ?なのかそれは。
ロボットもの見に来て、戦うところみたいな~と思ってた中高生に、おとなになりきれなかったこどものいたたまれない風景見せるのがエンタメ?

新キャラも別にいなくてよかったやん。掘り下げる価値がある話なんかあったか?元のキャラの尺が足りないやん。

庵野、富野パンツ討論

庵野:
僕なんかが言うと、凄くおこがましいんですけど。富野さんの作品は(富野さん自身が)全裸で踊っている感じが出ていて、好きなんです(コブシを握っている)!
宮さんの最近の作品は「全裸の振りして、お前、パンツ履いてるじゃないか!」という感じが、もうキライでキライで。「その最後の一枚をお前は脱げよ!」というのがあるんですよ(すでに調子に乗っている)。

庵野監督は今回パンツ脱いだんだろうけどさ。エンタメとして成立させるギリギリのところを逆シャアの富野監督は守ってたと思う。

富野:
確信犯って言われたいし、そう言われるように振る舞っているでしょうね。ただ、振る舞っているだけで、本当に確信をもって(裸を見せるかどうかの)境界線が見えているかどうかというと、それは見えてないよ。ぼくにはそこまで才能ないもの。その時その時で、良いにつけ、悪いにつけ、全力投球でしかやってない。僕流の言葉で言えば「若くあれ、それから、気合だ」。
その上で、「逆襲のシャア」あたりだと、「オンビジネスで、やってみせる!」っていう意識のほうが先行してるから、作品を作った意識っていうのはないですね。そっちにふれてるから、その確信論はないです。

多分見せてないんだよ富野監督。ほんとにギリギリのところで。

庵野監督は今回パンツ脱いで自分の本質見せたんだろう。

富野:
よくわかると言って、宮崎弁護をするつもりはないけどさ。おおむね、年を取るっていうことは、ああいうことなんだぜって………アッハハハハハハ………いや、失礼(笑)。
僕のことで言えば、いや、きっと、そうなのね。ここまで言葉として聞かされたことないから、初めて聞かされたけど。僕の言ってること、もう、わかると思うけど。「映画って、やっぱり、ああじゃなくっちゃ」ってね。やっぱり、チンチンを振り振り見えてるほうが気持ちイイんだよね。
庵野:
ええ、そうなんです。なんかボカシが入っているようなのは、嫌なんですよ。やっぱフリチンはフリチンのほうが。もしくは、ものすごくいい格好をして………。

それが私小説としてチンチンフリフリ踊ってるのが現出したのかもしれない。しかしシン・エヴァンゲリオンは中高生向けエンタメとして成立してないと思う。

ヒロイン選択の物語のなさ

富野監督のエンタメ論にもあるがキャラが恋をするには環境空間が必要だ。綾波、アスカにはどちらもあった。しかしマリを選んだ理由が観客にはわからない。マリに至る環境空間がないと俺は考える。


曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。

旧劇のシンジアスカには孤独に耐えて他者に触れるのが怖くても一緒にいる覚悟があったと思う。終盤のあれだ。
しかし今回のマリは私小説として読み解かないと物語が作品中に描かれていなさすぎる。

あのときの憧れ宮村優子から現実の安野モヨコに乗り換えたということなんだろう。ピンクだし。アスカはレッドで宮村優子はガッツレッドだ。

結論

ミロのヴィーナスと同じで旧劇には完成されない余白が残っていた。ヴィーナスの欠けた腕を想像することが出来た。

新劇には余白がない。

作品に余白がなくなったので、もう終わりだろう。
あとは実写監督としてリメイクを続けていくのだろう。



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