志位和夫いつもどおり歴史の捏造、歴史修正。日本共産党がソ連と戦い、ソ連を崩壊させたらしい

そして私が、みなさんにお伝えしたいのは、日本共産党が、旧ソ連による覇権主義――チェコスロバキア侵略、アフガニスタン侵略、そして日本共産党に対する悪辣(あくらつ)な手口を使っての干渉の攻撃、そのすべてと正面からたたかい、打ち破って、最後はソ連の崩壊という歴史的決着をつけた、そういう政党だということです。

ソ連と正面から戦い

極東の日本から口だけ批判することが戦いなんですか?

1958年(昭和33年)に共産党議長となり、宮本が書記長となった。団規令事件に関連して松本三益が1961年12月に最高裁で免訴判決が確定したことにより、1962年3月に野坂は公訴棄却となった。1982年(昭和57年)7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長となった。

プラハの春、アフガン侵攻の間はソ連のスパイが日本共産党トップやってたのに?

ソ連のスパイ集団じゃないの?少なくとも1982までは。

悪辣なソ連の策謀を打ち破ったのは文春では?

しかし、その直後の『週刊文春』9-11月の連載が元となり、調査の結果ソ連のスパイだったとして、1992年9月20日に日本共産党名誉議長を解任された[6]。さらに同年12月27日の党中央委員会総会において、日本共産党からの除名処分が決定された[2][7]。これはソビエト連邦の崩壊後、公文書が情報公開され、野坂が1939年にアメリカ合衆国からコミンテルンのディミトロフへ送った手紙が明らかになったことによる[6][2]。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、この結果山本はスターリンによる大粛清の犠牲となったのである[6][2]。名誉議長解任時点では日本共産党は、高齢の野坂に対して「党としてひきつづき必要な配慮をはらう」[8][9]としていたが、その後の除名処分により「配慮」も打ち切りとなった[9]。

野坂は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」[2]と述べた以外はこの件について語らず、1993年11月14日に死去

日本共産党が主に戦ってたのは日本政府では?

1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で51年綱領(武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した[50]。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件など様々な非合法活動が行われた。また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多数の武装闘争・騒乱事件が発生した[50]。

しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を全く得られず、1952年の第25回衆議院議員総選挙、さらには1953年の第3回参議院議員通常選挙で党公認候補者が全員落選、国会議員が参議院の1人(須藤五郎)だけになるという最悪の結果につながる。

ソ連の核はきれいな核

1961年に再開されたソ連の核実験に対して、日本共産党は当時、ソビエト連邦の核実験は防衛的と主張[57]

ここは、隠すの?ねぇねぇ。

内ゲバ、分派騒動の果、ソ連批判したのはわかりましたが

ソ連、中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとは全く違った対応を国際問題でとった。1968年のプラハの春を制圧したチェコスロバキア侵攻に際し、日本共産党はソビエト連邦共産党を明確に批判した。1979年12月にソ連がアフガニスタンに軍事介入すると(アフガニスタン紛争)、翌年1月にソ連を批判し、ソビエト連邦軍の撤退を要求した[59]。また1979年の中国によるベトナム侵攻(中越戦争)を批判し、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)による大韓航空機爆破事件、ラングーン事件、日本漁船銃撃事件にも厳しい態度をとった。

日本共産党が批判したら解決したの?これらは。批判したら戦ったことになるの?
上に書いたけど悪辣なスパイを倒したのは文春では?

なお

1977年、こえ派は「平和と社会主義全国委員会」と改称したが、1979年になって日本共産党が、それまでこえ派との組織的関係を維持してきたソ連共産党との関係を修復してしまうと影響力を大きく失い、党としては消滅への道をたどった。

アフガン侵攻後関係修復したみたいですね。

ソ連の崩壊が日本共産党の手柄だったと本気で言ってるのがすごいわ。

戦ってたのは日本政府と日本国内の左翼相手で、楽しく内ゲバしてたんじゃなかった?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?