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美濃の神田孝平という人

読売新聞の書評(10月9日)でみつけた神田孝平(1830-1898)について、学位論文をもとにして南森茂太(1977-)がまとめた、少々論文調の本であるが、同郷の岐阜出身で同姓の偉人ということから、もしかするとどこかで繋がっているかもしれないなどと夢を見ながら読んだ。子どものころ百科事典で名前を見つけたときには、何となく数学者という印象が残っていたが、本の中では思想家として神田孝平のみが語られる。
宋時代の文天祥と較ぶべくもないが、政治思想家であって当時の社会では十分に実現できなかったものの、歴史的に振り返ると通じるところを感じたし、戦後では反骨の釜石市長鈴木東民にも通じるものがある。
「依らしむべし知らしむべからず」という言葉がある。江戸時代の国の治め方の原理のようなものだ。パターナリズムともいう。それに対して、五か条のご誓文(1868年)の第一「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(p.67, p.124, p.182)をもとに社会・政治のあるべき体制を語り貫いたということに尽きるようだ。すなわち、平民の政治参画を主張した点で西周、森有礼ら在官洋学派知識人の一人であり、その点で福沢諭吉のエリートが体制をつくるという「愚民」政策と対立的に捉えることができる。「広く会議を興し」は木戸孝允の修正で出来たとも言われるが、その木戸とも官と民のコミュニケーションのあり方では対決することとなった。結果として、国の中枢で活躍することなく生涯を終えている。
孝平の生まれは岐阜県の垂井で、筆者の生まれは本巣郡北方、父の生家は羽島郡笠松で、同じ美濃ではあってもだいぶ離れている。とてもつながりはなさそうだ。神田家は代々竹中家の家老の地位にあったが孝平が生まれたのは、父孟明が53歳のときで母は側女のさよ。それまで実子に恵まれず、すでに養子の長男がいたことから将来の見えない身であった。父は孝平3歳のときに死に、母も再婚。結局医師である叔父の神田充のもとで薫陶を受ける。そのことが、幕末にあっても洋学に通じ、明治の国つくりに参画することとなり、思想を後世に残すこととなった。
第二章、第三章で語られるのは、1862年執筆の「農商弁」である。農民の暮らしが国を支えるという現実と洋を見て商業こそが金を生むということを捉えて、農民からでなく商人から税を取り立てよと言う。そうでないと、農民は商人になってしまうと指摘したという。(p.53) まさに、食糧安保というような掛け声すらある今の日本が、農業を補助金漬けにして魅力のない職業にしてしまったことを反省すると、今日でも、この議論は有効なのではないか。農業はいくら利益が出ても納税義務はないとすれば、より多くの人の農業へのモチベーションが生まれよう。もちろん、漁業や林業にも当てはめればよい。
徳富蘇峰が登場するのも興味深い。蘇峰は「平民社会」を「自治自活」の社会と表現し、土地を有する「田舎紳士」が社会の担い手に相応しいという。さらに、小規模土地所有者も、優れて自立している点では大規模土地所有者以上に高く評価する。(p.66) これは、ネグリ&ハートが「アセンブリ」(岩波書店、2022年)の中で、労働者が生産手段を資本から奪取せよというのに、通じるものがある。
「愚見十二条」なる建議書(1873年)を提出し、さらには考えの普及を試みている。その基本的考えが、「民」を「赤子」と見做すのでなく「大人」として扱えということにある。(p.67)
表に現れた孝平の功績は、兵庫県令としての実績にある。明治4年から9年までの間務めており、実に多くの役職に就いた中で、思想が実現できた時でもある。国の中枢から追いやられたことが幸いしたとも言える。そこでは、明治5年(1872年)に行政区画の整備、行政単位への責任者への配置、選出法の明文化という改革を終えた。(p.181) すなわち、「県会」「区会」「町村会」の開設を現実に成し遂げる。江戸時代の「町役人」「村役人」は意思決定者であると同時に執行者でもあったのを、「民会」の開設により、意思決定機関と執行者とを分離したのである。
しかし、その先進性が木戸孝允あたりからは危険視され、最後には爵位も与えられ貴族院議員になるも、政治を主導する場にはなかった。新聞を通して考えを民に伝えようとするも、官にあるものが法律に基づかない形で自らの意見を言うことは自粛すべきという体制に押された形である。これは、今も官は自らの思想を自由に発言できない状況が、政治を平民から遠ざけている一因にもなっているのではないかと想像できる。木戸孝允により、「無機質」な「官報」が近代官僚制度の象徴となった(p.257)と述べている。
終章の9ページで「神田孝平が描いた明治日本」としてまとめられている。明治政府の現実と比べると先進的でありすぎたと同時に、民主社会をどう築くかと言う意味では、今も生きている議論だと感じた。誇るべき岐阜の神田孝平である。

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