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「超インテリア」って何?

山本想太郎の建築思想が、「超インテリア」という言葉になった。あとがきにあるように、設計事務所の仕事も新築は少なく、インテリアかリノベーションになって来ているという。それは、多くの設計事務所に共通しているだろう。一般の人にとって、建築を考えるよりはインテリアを考える方がなんとなくとっつきやすいということがあって、それを少しふくらまして考えれば良いということになったのであろう。
戦後とにかく家を必要とした時代にできた建築基準法のお陰で、いまも新築推奨という社会制度になっている。現実には、住宅もオフィスも余っているので、リノベーションで、すでにある建築をより良く使うことが時代の趨勢のはずなのに、お役所も個人も、法規のことや耐久性のことはとても面倒だし、専門家も面倒くさがっているのが実情。それを、インテリアを膨らまして考えれば良いでしょうと言っているのだと理解した。
「現代の日本社会において、もはや建築を建てるというのはそんなに安易に考えることではなく、明確な意義や合意、そして覚悟が必要な行為である」(p.19)と序章で述べているのは、まさにその通りである。これは、建築確認制度への根源的問題提起と捉えたい。
改修して原形を残した東京駅や国立駅に「ノスタルジー」を感じない一方、沼田市の大型店舗を改修した「テラス沼田」にノスタルジーを感じる(第2章)というのも、建築の面白さだ。平面から考える日本の建築と立面から考える西洋の建築という視点もなるほどと思わせてくれた。「超インテリア」と言いつつ、実際は建築論を展開している。材料のこと、耐久性のこと、さらにはVRや地球環境のことまで、建築ということでどうすべきかと考えるよりも、インテリアとその周辺ということで考えやすくなると説いている。
第3章で「思考」へ入るのであるが、建築の考え方への思考を読者と共有しようとしていることはわかるのであるが、言葉に何となく違和感を覚えてしまう。「上部構造」と「下部構造」も、いろいろなものに対して使えるのではあるが、少なくとも建築構造にあって、上部構造は地上部分と基礎や杭を含む地下部分を想起する。ここでの使われ方は、ソフトとハードのようでもあり、さらには、それを最近よく使われる「コト」と「モノ」をあてはめて議論しているようでもある。
「普通」という言葉は、もっと難しい。建築の専門家にとっての普通の建築と一般の人にとっての普通の建築で、思い描くものも異なるであろう。そこに「普通の上」とか「普通の下」と言われても困る。既存の価値観に抗わない範囲で表層的な芸術性を競うなかで高い評価を受けたものを「普通の上」(p.229)と定義されているが、「普通」という言葉を使わずに、その価値や意義をもっと論じてほしい。要は、一般の人間が、もっと建築のあり方に対して議論に加わって「明確な意義や合意」の枠組みに入り込んでほしいという訴えなのだと思うが、そんなときに「普通の上」「普通の下」と言われても、理解が深まらず、かえってあいまいになってしまう。
「市民中間集団」がいないことを憂えている点は、重要な指摘だ。民主化社会のはずが、お任せ社会になってしまっているときに、建築基準法の存在は、金さえあれば建築できる社会となって多くの人の生存権や幸福権を奪っているというように思うのだ。「専門性と総合性が同じテーブルで議論するための場も言葉も、いまの私たちは持ち合わせていないことを痛感する」と書き、「情報効率の良さが、流れて来ない情報への無関心、思考の停止、すなわち総合性への喪失にもつながっている」(p.227)と受けて、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を挙げて、200年前から予言されていたという。要は、市民と建築の専門家が共通の言語をもって、総合的に論ずる場が、社会にとって建築を意味あるものにしていくということなのであろう。そのような社会をつくっていくためにこそ、建築の専門家として、このような本を出版する意味があるということにつながる。
第3章後半は、具体的事例をあげているところは、共感するところが多い。リノベーション建築が社会に貢献していることも伝わるし、それがまさに超インテリア思考による建築の見方でもあるということなのであろう。何をもって建築の良し悪しを論ずるか。専門家の狭い視野での評価や商業主義のやりたい放題に、市民が疑問を言葉にしたり、待ったをかけられるような社会を私たちは必要としている。あらためて、最低基準の建築基準法が法制度、社会制度を通して、建築の常識をつくっている現状を、変えることこそが、「市民中間集団」を育てることにも、専門性と総合性が議論される社会になることにもつながると思うのである。

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