見出し画像

「創発」vol.14, no.3(2017)に見る復興支援の評価

きっかけは、NHKラジオ深夜便の明日への言葉(3月24日4:05am)で聞いた、キャロル・サックのアイリッシュ・ハープによるスピリチュアル・ケアの話。唐丹小中学校とのつながりは、盛岡在の高舘千枝子が相談した、桜美林大の長谷川恵美(スウェーデン留学時に高舘と知己に)による教育支援として、震災直後に始まった。高舘との経緯を踏まえた論考をネット検索で見つけたのが、東京基督教大学の「創発」vo.14, no.3であった。稲垣久和のコーディネートによる、2014年の2件のセッションを取りまとめたものである。それぞれ2人が、公共政策、地域ガバナンス、市民ボランティアの観点で発題し、その後に整理された討論が載っている。
まずは、広井良典による「ポスト成長時代の地域・公共政策・価値」。日本の現状に対して地域主体の社会こそが必要ということ。グローバルな資本主義経済の作る「ケア」とは何かの問題指摘。資本主義の本質が市場経済の拡大・成長にあり、協調的社会の弊害となっているということ。わが国は、「社会的孤立」度が高く、その一方でものごとが集団で動くので、大きな社会的矛盾として抱えている。石徹白の平野彰秀の活動が「経済と倫理の統合」という考え方に繋がっていると評価しているのも、嬉しい事例紹介だ。「地球倫理」という視点がイタリアン・セオリーを超える哲学を生むかもしれない。社会福祉の専門家、河幹夫の「効率」という概念の捉え方についての問題提起に対して、古い効率性概念にとらわれて、逆に非効率になっていると分析する。人手を使って資源を節約するということで環境効率性を向上させるべきだという。「都市と農村」というテーマを、もう一度、正面から考える時期にあるという。鎮守の森の価値、自治体とボランティア団体との役割分担、ローカルを回復すべしという議論でまとめられている。すぐにできることではないかも知れないが、少なくとも方向が見えているように感じられた。
2題目は、岡村清子の「ケアのあり方を考える―老人福祉・介護福祉・幼老統合ケア」。福祉のあり方が、ボランティアから始まり、NPO法人、介護保険制度など、大きく状況が変わりつつあるなかで、介護労働者の圧倒的不足という事態を招いている。富山市の「このゆびとーまれ」、宮城県岩沼市の「ホームひなたぼこ」と小金井市の「地域の寄り合い所 また明日」の3事例を紹介し、国のルールによる一律の制度つくりというよりは、地域発の「やらなくては」との思いで始まった事業に、これからの可能性を見出す。社会福祉法人も理念の見えない事業になっている例が少なくない。知的障害、認知症対応、社会復帰、高齢者など、国の制度にあてはめると縦割りのルールに縛られ、やるべきことが出来ないなど、現場に負担がかかってしまっている。また「クリスチャンのミッションとして福祉を実践」しようということについては、アメリカでは成り立つが、日本では難しいとの文化の違いがうまく説明されている。「寄付もボランティアだという文化を定着させていくのも、市民社会形成の大きな部分」という意見もあったが、アメリカの寄付文化は、格差社会の存在が肯定化されるような居心地の悪さを感じさせなくもない。介護を必要とする人に対して、個人としてだけでなく地域として介護を支援する仕組みを、自治体が応援することが基本にあるように思う。
3題目が、長谷川の「魂への配慮―東日本大震災後の教育支援(釜石市立唐丹小中学校)の活動報告」である。津波で全壊した小学校、2100人の人口の住宅の3分の1が全・半壊、死者22名という唐丹に、震災復興支援として何ができるかというところから、2014年までの3回にわたるパストラル・ハープによる唐丹サンタルチア祭の実施、そして、それを支えた高舘による唐丹希望基金の募金・支援が報告された。小中学生の子どもたちへの「心の癒し」の場を教育の中で実践したことについて、今後も多くの自然災害を被った地域に、どのような復興支援がどのような意味をもつか丁寧に評価もされている。2020年3月までの区切りとしているとあったので、現在はどうなっているか、気になった。先日の唐丹小学校150周年記念行事では、高舘氏には感謝状が贈られていたように記憶している。唐丹希望基金は4000万円も集めたのだそうだ。自分の知らない部分で、唐丹の小学生は、随分と恵まれて状況におかれたと言わざるをえない。震災をきっかけに、スウェーデンの文化としての「ルチア祭」を唐丹でも続けられるのだとしたら、それはまた、地域社会にとって良いことのようにも思える。公共政策学の森田哲也は、三陸のワカメ養殖業に投資をした経験から、慈善事業としてというよりは、地域が経済的にも社会的にも機能していくようにという気持ちであり、それは「倫理的な」投資であったと述べている。唐丹小白浜まちづくりセンターを立ち上げた際に、45人に株を買ってもらったというのも、多くはそのような倫理的な投資という意識が大きかったのではないかと思う。このことは、現在まで、とても十分な事業展開はできているといえないながらも、継続することで、地域が社会として機能していく主体の一つになっていることの意味はある、と感じられるのである。
最後は、岡村直樹による「震災ボランティア活動と若者の宗教心の発達」。震災復興ボランティアを経験した大学2・3年生9名の自由記述アンケートからの教育的意味の考察が報告されている。危機的な状況にある社会の一面を直接に知って体験することの意味が大きいと評価。現在、大学のカリキュラムにボランティア体験を単位化する動きがあるが、強制でもやることで得るものがあるという意見と逆に自発性を疎外することで良くないという意見が交換されている。「日本の宗教はすごくプライベートに閉じていて、もっとパブリックに開かれて市民社会を形成していく形に成長していくべき」(稲垣)は、すべてのセッションに共通するまとめにもなっていると感じた。長谷川が天理市を訪問した際に、天理教にそのような世界を見た思いを語った。1975年頃だったと思うが、団伊久磨のオラトリオを歌うために竹中工務店の合唱団員として天理市を訪問したときのことを思い出した。奉仕する人のまちとの印象は強かった。「宗教は本来は地域のパストラルケアを担っていた」(稲垣)という発言があるが、唐丹における盛岩寺を目の前で見ていると、まだまだそのような状況があるようにも思えたりした。「ルチア祭」は、どうなっていくのかわからないが、盛巌寺住職による読経も、その中でなされたということからも、明らかに盛岩寺は、唐丹のパストラルケアを担っているとも言えるわけで、震災復興まちづくりの大きな支えを見つけた思いも沸いた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?